「本当の平和とは?」 マタイによる福音書10章34~39節
- 2015年8月8日
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「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである…」-マタイ10:34より-。イエスの衝撃的な言葉は、私たちに何を教えているのでしょうか。
戦後70年、私たちの国は永久に戦争を放棄した「日本国憲法第9条」の精神に反して「戦争の出来る国」へと大きく舵を切ろうとしています。私たちには、キリスト者の良心に従ってこのような動きに対して声を上げ、行動することが求められています。しかし、今朝聴いたイエスの衝撃的な言葉に、私たちが考える平和そのものが「本物」なのかという問いかけがあるように思えてなりません。「日本は平和でいいね」と享受してきた平和は、実は西側諸国との同盟の下での「力による平和」であったかもしれませんし、経済的な繁栄も近隣諸国の富を必ずしも公平でない手段で得てきた「負の遺産」であったかもしれません。誰も(もちろん私も含めて)がこのような本物とは言い難い平和に浸ってきたのです。「それでは、どうすればいいの?」との問いに明確に答えることは出来ません。けれども、パウロは自らの使徒としての姿勢を「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか…」-Ⅱコリント11:29より-と紹介しています。私たちが知らないうちに誰かを傷つけ、どこかで悲しんでいる人がいるなら、それは「本当の平和」とは言えないでしょう。
そのように、愛と平和の本質はやはり「自分と他者」というところに堅く立って祈りつつ歩み続けることであり、実にそれを最初に実行されたのは神だというところに辿り着く必要があるのです。十字架は、まさに神がその独り子の命を差し出してまで私たちを愛された「最も崇高な愛の行為」であったのです。そのように考えていくときに、イエスが投げ込まれた「つるぎ」というのは、人と人とが真剣に向き合う(手っ取り早いやり方や、力による平和を求めようとする誘惑から脱出する)ために投げ込まれた剣だということができます。
この朝、イエスの言葉をいま一度丁寧に聴いて、新たな一歩を歩み出そうではありませんか。
内田章二 協力牧師


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