世界宣教を覚える祈り (ローマの信徒への手紙 1:8~15)人間には「祈り心」が備わっています。物心ついたころには何者かに祈りを捧げているのです。信仰心とも言えましょう。畏敬する対象を神として手を合わせます。その前に自らの無力さを思い、自他の幸せを祈ります。しかし、自分で生きる力が増してくるにつれ、祈りは自己本位となり自己実現を求め...
「神の出来事にあずかる者」 ルカによる福音書 9章46~48節ルカ福音書4章13節から続くガリラヤ伝道の記事を見ると、使徒たちはイエスから直に「福音」を聞いてきたことがわかります。ところが、彼らの心の中は依然として「誰が一番偉いのか」と、いたってこの世的な価値観に支配されていたのです。...
ガザに下る道で (使徒言行録 8章26~40節)使徒言行録が記す初期のキリスト教会の発展の様子には目を見張ります。信仰に導かれた人が「三千人」(使徒2:41)、「五千人」(同4:4)と増えて、十二使徒だけでは対応できず、信徒の中からも所謂「七人の奉仕者」(同6:5)が立てられ、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の...
「信仰という宝」 マタイによる福音書 13章44~50節イエスの宣教のご生涯を記した福音書には、天の国とか神の国という言葉がよく使われています。マルコによる福音書1章15節には、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、イエスの宣教の第一声とも言うべき言葉が記されています。私たちは普段、聖書を通読していく中で...
わたしたちの平和 (エフェソの信徒への手紙2章11~22節)気の合う人々との交わりは楽しいもので、いつまで一緒にいても疲れることはありません。教会の交わりもそうでありたいと願い、居心地の良い教会を理想的な愛の共同体と考える人も少なくありません。しかし、そのような「お仲間的な」交わりは、聖書が指し示す「神の国」、「愛の共同体」の姿とは...
「聖書における最初の戦争」 創世記 14章11~24節創世記一四章は戦争の記事で始まっています。どのような理由があったとしても、戦争は罪であると叫ばねばなりません。かつて日本がアジアにおいて犯した罪、また自らも原爆の悲惨さを味わったこと、そして今なお世界中の人びとが苦悩の中にあることなど、戦争のもたらすものは計り知れません。戦...
「救いの完成のために」 マタイ26:47~56イエスは早くからご自分の歩まれるべき道について、弟子たちに語っておられました。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」-マタイ16:...
共に喜ぶ教会 エフェソの信徒への手紙 4章16~24節新しい年度が始まり、年間標語と聖句が掲げられました。「新しい」という言葉には常に「喜び」が伴っているようです。私たちの教会は今日86歳を迎えた内田敏子さんから、来週9歳になる金子和(のどか)さんまで、46名の現在会員(教会活動を担っているクリスチャン)がおられます。ちなみに...