「神の出来事にあずかる者」 ルカによる福音書 9章46~48節ルカ福音書4章13節から続くガリラヤ伝道の記事を見ると、使徒たちはイエスから直に「福音」を聞いてきたことがわかります。ところが、彼らの心の中は依然として「誰が一番偉いのか」と、いたってこの世的な価値観に支配されていたのです。...
「信仰という宝」 マタイによる福音書 13章44~50節イエスの宣教のご生涯を記した福音書には、天の国とか神の国という言葉がよく使われています。マルコによる福音書1章15節には、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、イエスの宣教の第一声とも言うべき言葉が記されています。私たちは普段、聖書を通読していく中で...
「復活のイエスが共に」 コリントの信徒への手紙二 4章16~18節パウロたちは各地で伝道していましたが、迫害のため、その働きは困難を極めました。ところが、それにもかかわらず、彼はⅡコリント4章1および16節で「私たちは落胆しません」とくり返し告白しています。「なぜ?」と思うのですが、パウロには決して落胆しない確かな根拠がありました。「主イ...
「聖書における最初の戦争」 創世記 14章11~24節創世記一四章は戦争の記事で始まっています。どのような理由があったとしても、戦争は罪であると叫ばねばなりません。かつて日本がアジアにおいて犯した罪、また自らも原爆の悲惨さを味わったこと、そして今なお世界中の人びとが苦悩の中にあることなど、戦争のもたらすものは計り知れません。戦...
「なぜ思い悩むのか」 マタイによる福音書6章25~34節「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」-マタイ6:34-。 私たちにとって、「明日」という日は、ある場合に大きな悩みの種であることが多いものです。10年後、20年後、私は、そして私の家族は何処で何をしてい...
「魂の癒やし主」 詩編42編章1~12節詩編には、ダビデの作とされる詩が数多くあります。イスラエルの王ダビデは、すぐれた詩人でもあったのです。けれども、今朝お読みする42編については、作者は「捕囚の民」の一人であるとする研究者が多いのです。詩人がエルサレムを離れ、捕囚の地ではるかに都を望み見て嘆く姿から、メッセー...
「とりなしを祈る群れ」 コロサイの信徒への手紙 1章9~23節今朝の聖書に「御子はその体である教会の頭(かしら)です」-コロサイ1:18より-と記されています。「教会の頭はキリスト」とのパウロの言葉を通して、私たちは深い神の思いを知ることが出来ます。 キリストを頭とする教会は、何はさておいても「とりなし」を大切にする人々の群れだと言う...
はじめに神の赦しが Ⅱコリント6:3~13今朝の聖書の冒頭でパウロは「わたしたちはこの奉仕の務めが 非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず・・・」-Ⅱコリント6:3-と言っています。彼は、クリスチャンには神から託された「務め」があると言っているのです。少しさかのぼって5章18節には「神は、キリストを通...
「『神の時』を見据えて」 マタイによる福音書 9章14~17節今朝お読みしたマタイ福音書9章14~17節で、私たちはイエスの「福音」と、それまでのイスラエル社会が大切にしてきた「律法」がぶつかりあう光景を目にします。 さて、断食はイスラエル社会においては敬虔さ(信心深さ)のしるしでした。バプテスマのヨハネの弟子たちは師匠にならって節制...
「あたらしい掟」 ヨハネによる福音書 13章31~37節今朝の聖書でイエスは「新しい掟」として弟子たちに愛し合うことを勧められました(ヨハネ13:34)。ここで言う「新しい」は、「いまだかつて経験したことがない」とか「斬新な」というニュアンスの含まれている言葉です。いったいどこがどのように新しいのでしょうか。...