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「とりなしを祈る群れ」 コロサイの信徒への手紙 1章9~23節

今朝の聖書に「御子はその体である教会の頭(かしら)です」-コロサイ1:18より-と記されています。「教会の頭はキリスト」とのパウロの言葉を通して、私たちは深い神の思いを知ることが出来ます。

キリストを頭とする教会は、何はさておいても「とりなし」を大切にする人々の群れだと言うことが出来ます。パウロは今朝の聖書の冒頭で、コロサイの教会の人々のために祈っています。コロサイの教会はパウロの同労者エパフラスによって建てられた教会だと言われています。そういう点で、パウロ自身の伝道によるフィリピやテサロニケの教会とは少し事情が異なっていますが、パウロには「よその教会のことだから」といった遠慮や冷たさは少しも感じられません。ここに人の思いを超えた神の愛に根ざした「とりなしの祈り」があるのです。

私たちもとりなしの祈りをします。けれども、私たちは自分自身の中で人を分け隔てして、自分にとって好ましい人のためには熱く祈れても、そうでない人のためにはどうも熱心に祈れない…、そういう自分自身の弱さに気付いて愕然とすることがあります。けれども、パウロの祈りを聞くときに、教会には決して彼にとって好ましいとは思えないような人が大勢いたにもかかわらず、そういう人たちをも含めて神が最善をもって臨んでくださるように、と祈っているのです。

パウロは教会の頭であるキリストが「見えない神の姿」-同1:15より-だと言っています。私たちはイエスを見て神のみ心が何であるかを知るのです。そして、そのイエスの最期は「十字架の死」という出来事を通しての「神と人との和解の達成」だった-同1:20参照-とパウロは言うのです。神は、イエスを通して人を分け隔てなく愛されるご自身の愛を知らせてくださったのです。神に造られた者が互いに助け合い、支え合って生きることが神の願いであることを、イエスが身をもって示してくださいました。まさにイエスは「見えない神の姿」なのです。

この朝、私たちも交わりの中心に十字架のイエスが立って下さっていることを今一度確認し、新たに歩み始めたいのです。

                                          内田章二 協力牧師

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