この最後の者にも (マタイによる福音書20章1~16節)ロシアの革命家レーニンは「働かざる者食うべからず」と言ったそうです。戦後の食糧の乏しい幼年期、「お手伝いをしたら食べていいよ」などと聞かされながら食卓に着いた経験のある私にとって、この言葉に良い印象はありません。やがて青年となり教会に通い始めると、この出典が聖書であると知る...
世界宣教を覚える祈り (ローマの信徒への手紙 1:8~15)人間には「祈り心」が備わっています。物心ついたころには何者かに祈りを捧げているのです。信仰心とも言えましょう。畏敬する対象を神として手を合わせます。その前に自らの無力さを思い、自他の幸せを祈ります。しかし、自分で生きる力が増してくるにつれ、祈りは自己本位となり自己実現を求め...
「何故」から「何のために」へ (ヨハネによる福音書 9章1~12節)生まれつき目の見えない人を見た弟子たちは、主イエスに問いかけました。「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:2)と。日本でも古くから「親の因果が子に報い」と、生まれながらの不自由さの原因を、...
どこに立ち、何をするのか? (創世記 1章26~31節)昨年度から、古賀教会は「信仰告白、ミッションステートメント研究班」を立ち上げて、作業を続けてきました。そして、今年度末を目指してミッションステートメント(以下、MSと記します)を策定しようと進められています。MSは最近では企業などで良く用いられる用語で、自社がどこに立ち、何...
ガザに下る道で (使徒言行録 8章26~40節)使徒言行録が記す初期のキリスト教会の発展の様子には目を見張ります。信仰に導かれた人が「三千人」(使徒2:41)、「五千人」(同4:4)と増えて、十二使徒だけでは対応できず、信徒の中からも所謂「七人の奉仕者」(同6:5)が立てられ、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の...
闇の中に伴われる神 (ヨハネによる福音書 3章1~16節)ユダヤ最高議会を構成する議員の一人ニコデモは、自分の立場を気にしたためか「夜」という時を選んでイエスの許に訪ねてきました。彼は、尊敬の念を込めて「ラビ(先生)」と呼びかけ、「神のもとから来られた教師」と認識していることを告白しています。彼はイエスが起こしたカナの婚礼での「し...
聖書による養い (テモテへの手紙二 3章10~17節)プロテスタント教会には、教派を超えて大切にする「五つの約束」があります。①聖書を読む、②お祈りをする、③礼拝を大切にする、④献金をする、⑤伝道する、の5項目です。恐らく私たちが神と人々に対して責任ある信仰生活を行おうとするときに、この「五つの約束」は非常にバランスのとれた優...
第一に伝えたいこと (コリントの信徒への手紙一 15章1~11節)教会で最も大切な働きは、「宣教」と「教育」と言われます。ここで言う「宣教」(ケリュグマ)とは伝えるべき使信のことで、その中心が「福音」、即ち、初代教会の「信仰告白」です。この使信をいかに後世に継承するかが教会の「教育」(ディダケー)にかかっているのです。...
わたしたちの平和 (エフェソの信徒への手紙2章11~22節)気の合う人々との交わりは楽しいもので、いつまで一緒にいても疲れることはありません。教会の交わりもそうでありたいと願い、居心地の良い教会を理想的な愛の共同体と考える人も少なくありません。しかし、そのような「お仲間的な」交わりは、聖書が指し示す「神の国」、「愛の共同体」の姿とは...
敗戦70年の節目にあたって (出エジプト記20章 2、13~17節)近代日本の幕開けを明治維新に置くならば、それは鎖国を排して諸外国に門戸を開いた歴史の節目と言えます。しかし、この開国はアジア諸国への侵略の始まりでもありました。日本は1874年(明治7年)の台湾出兵に始まり、日清戦争、日露戦争、更に韓日併合、満州事変と満州国樹立、そして太平...