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世界宣教を覚える祈り (ローマの信徒への手紙 1:8~15)

人間には「祈り心」が備わっています。物心ついたころには何者かに祈りを捧げているのです。信仰心とも言えましょう。畏敬する対象を神として手を合わせます。その前に自らの無力さを思い、自他の幸せを祈ります。しかし、自分で生きる力が増してくるにつれ、祈りは自己本位となり自己実現を求め、他者に勝る力を要求するようになります。このような信心を“御利益信仰”と言います。神を意のままに操る高慢な心の現れです。

勿論、祈りは、謙遜な祈りも傲慢な祈りも、すべて神に聞かれています。否、祈らない前から既に知られているのです。ヤコブは「願い求めても、与えられないのは、・・・間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブ4:3)と記しますが、大切なことは「その祈りの動機付けは何か?」にありましょう。

パウロはローマの信徒への手紙で、「わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし・・・」(ローマ1:9)と記します。彼の動機付けは、ローマにいる人々に福音を伝えること、この一点にあります。この福音は彼自身が体験した喜びの事柄であり、先にこの喜びに与った者として、すべての人にこれを伝える責任がある、と受けとめたのです。かつて、自分の努力で信心の道を究めようとしていたパウロが、その野心を打ち砕かれ、救いは神からの一方的な恵みによること、御子イエスの十字架によって開かれていることを知らされるに至ったのです。以来、彼はこの至上の喜びを分かち合いたいとの一心から、祈りが起こされ、行動となる・・・。全ての人の救いを願うという動機付けから、彼の新しい人生が始まったのです。

祈っても祈らなくても結果は同じではないか、と言われる方もあるでしょう。そうかも知れません。しかし、祈っていなくて、どうして神の御心を知り得ましょうか。彼はキリストの愛を知って、これまで追い求めていた自己実現の世界に身を置くことをやめました。それ以来、彼の関心事は唯一つとなりました。イエス・キリストを伝えたい、この喜びに与って頂きたい、この一点に集中する祈り、ここに神と共に歩む第二の人生が開かれたのです。この祈りに連なり、共に神の御業に与る者は何と幸いなことでしょう。

                                                  TK生

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