「証し」 M.I
- kogabaptist
- 1 日前
- 読了時間: 3分
私は小学5年生の時、親しかった友だちのお父さんが
突然の炭鉱での落盤事故で亡くなられたことをとおして
死の現実に否応なしに向き合わされました。その日から、
死に対する恐怖が何をしていても私から離れませんでし
た。「人は本当に死ぬのだ」「死んだらどうなるのだろう」
「自分はどこからきてどこに行くのだろう」「最後は死で
終わる人生にどんな意味があるのだろう」といつも考え
るようになりました。一番近くにいる親でも私の心の中の
ことまでは分かってはいないと思うと、人は所詮一人で
生まれ一人で死んでいくのだ、私は果たして、この人生
を一人でどうやって生きていけばいいのだろうという不
安と底知れない空しさを心に感じながらも、信じられるの
は結局自分しかいないと心を偽って過ごしてきました。し
かし、それはうわべだけの自分のようで、自分は偽善者
だと思わせるようなきつい人生でした。
高校を卒業してミッションスクールに入学しました。最
初のチャペルで「あなたの人生を大きく変えるような話
が聞けるかもしれません」と言われました。私は今までそ
んなことは考えもしていませんでしたが「このままの人生
でいいとは思わない。変われるのであれば変わりたい!」
と、これまでずっと心にしまっていた内なる思いは私にと
っては避けては通れない根源的なことではないかと無意
識のうちに思ったのかもしれません。「そんな話が聞かれ
るのであれば一回も欠席せず出席しよう」と決心しまし
た。半年が経っての10月28日のチャペル、講師の先生
が、このように言われました。「人は口では平和を唱えて
はいるが、実際にやっていることは破滅への道である」。
「破滅?」受け入れがたい言葉ですが、私はすんなりとそ
うだなと納得しました。続けて「どんな人でも一皮むけば
牙を持っている」と…。その言葉に私は打ちのめされまし
た。極限の状況の中での自分という人間の恐ろしさに震
えと涙が止まらなく、こんな当てにならない自分を信じて
は生きていけないと思いました。では…私はこれからいっ
たい何を信じて生きていけばいいのか、と問う状況の中
で、これまで何回聞いてもわからなかった神の存在が私
の心の内にあり、その神の前に、逃げることも隠れること
もできない罪人としての私がいました。そのどうしようも
ない状況の中で、聖書のイエス・キリストの言葉に出会
いました。「私が来たのは正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて悔い改めさせるためである」。 イエス・キリ
ストをとおしての神の私へのとてつもない大きな愛を知り
ました。それは罪の重荷からの解放、そして死の恐怖から
の解放、人生の空しさからの解放でもありました。聖書に
「このことは、目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に
思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者
たちに準備された」とあり、又「求めなさい。そうすれば与
えられる」とあります。
まさに、それまで心に思い浮かびもしなかった人生の転換
点となりました。それからの私の人生はもはや一人ではなく、
イエス・キリストと共に歩む人生となりました。神の思いは限
界のある私の思いを高く超えているので、受け入れるまでに
はたくさんの信仰の闘い・葛藤がありました。でも(その時は
分からなくても)後になれば、「ああ、そうだったのか。」と、い
ろいろな経験・体験を通してどこまでも神の真実・約束に信
頼していくことを学ばされてきました。「わたしの軛は負いや
すく、私の荷は軽いからである」。今までを振り返り噛みしめ
ている聖書の言葉です。
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