「何故」から「何のために」へ (ヨハネによる福音書 9章1~12節)
生まれつき目の見えない人を見た弟子たちは、主イエスに問いかけました。「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:2)と。日本でも古くから「親の因果が子に報い」と、生まれながらの不自由さの原因を、親や先祖に求める傾向があります。そして、聖書にこのような「問い」があると言うことは、洋の東西を問わず、同様の疑問があると言うことでしょう。その結果、親や先祖を責めたり、自分の人生を呪ったりと、運命論、宿命論に陥る人も多いのではないでしょうか。
主イエスはこの問いに対して、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(同9:3)とお答えになりました。病気や障がいの原因を本人や先祖の罪に探り求めるのではなく、この状況から何が出来るのか、と積極的に受けとめることで生き方が180度変わる、と、発想の変換を求められたのです。「なぜ」「どうして」と過去の中に悪者探しをし続ける生き方は人生そのものを空しくさせてしまいます。しかし、今の状況が「何のために」あるのかと、神の愛に結ばれる働きを見ようとするならば、そこから新しい未来が開けてきます。その置かれたところから愛の業を始めることは可能だからです。
今日(11月第二主日)は「バプテスト福祉デー」です。現在、バプテスト連盟に連なる5つの福祉事業体がありますが、一番近くにあるのが久山療育園です。現在久山療育園は障がいのある方々が生き易い社会づくりに取り組んでいます。そのような社会が、すべての人にとっても生き易いと信じるからです。久山から発信される神の御業が多くの人々に広がり、誰でもが、身体や心の様々な違いを認め合いつつ共に生きることが出来る、それこそが主イエスが求めておられる神の国の姿でありましょう。
お互いがそれぞれに持つ垣根を超えて一つとなるには強い意志と努力が必要です。「何のために」この人が存在し、また、私が存在するのか、この問いから新しい神の御業が始まるのではないでしょうか。
TK生