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「信仰という宝」 マタイによる福音書 13章44~50節

イエスの宣教のご生涯を記した福音書には、天の国とか神の国という言葉がよく使われています。マルコによる福音書1章15節には、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、イエスの宣教の第一声とも言うべき言葉が記されています。私たちは普段、聖書を通読していく中で「天の国」とか「神の国」という言葉をなにげなく読んでいます。けれども、実はこれらの言葉の前で振り返ってみる必要があります。というのは、「国」と訳されている「バシレイア」という言葉には、私たちが自然に考える「国」という意味合いはほとんどないのです。

 新共同訳聖書は、この言葉を「天国」と訳さずに「天の国」と訳しています。この「の」をつけることによって、天国という概念が決して限定された領域の中に、つまりどこか遠いところにあって、私たちはそこに到達するためにあれこれと修行を積まないと入国が許されないということではなく、神の力が働くところとしての「天の国」を強調しているのです。

 こうして考えてみると、天の国は私たちの想像を遙かに超えて豊かなものであることがわかります。神は時間限定や地域限定で働かれる方ではないのです。神はいつでもどこでもわざをなさる方であり、また逆に言うと、神が働かれるところがまさに「天の国」なのだと言うことが出来ます。

 イエスは、ルカによる福音書17章20、21節で次のように言われました、“ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。”「あなたがたの間に」とは、「あなたがたの交わりの中に」というニュアンスを含んでいます。人と人とが心を通わせて交わる交わりの中に「神の国」は実現するのであり、それはこの世のいかなる富も価値を失うほどすばらしい「天にある宝」なのです。そして、教会はこの「宝」がイエス・キリストを信じる信仰によって得られることを、今日もお伝えしているのです。

                                            内田章二 協力牧師

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