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80年前のイースターの思い出 金子純雄

80年前、日本は連合軍を相手に、まだ激しい戦

争を続けていました。戦局が厳しくなり、空襲警報

に灯火管制を強いられる文字通り「暗い夜」が続く

ようになっても、そしてキリスト教は敵性宗教だと

白い目で見られるばかりか、クリスチャンたち、わ

けても牧師たちがスパイの嫌疑をかけられるような

ご時世でしたが、福岡大空襲で会堂や自宅が焼失す

るまでは、日曜学校も含めて礼拝を休むことなく、

家族揃って出席することが当然な生活を送っていた

小学生から中学1年生の6月迄のことが、何故か懐

かしく思い出されます。

私たちが日曜日毎に通っていたのは、当時、簀子

町にあった現在の「福岡バプテスト教会」でした。

日本基督教団結成後は「福岡城北教会」と呼ばれて

いたようですが、私には「簀子町教会」と言うのが

最も馴染み深く、記憶に残っています。

牧師は下瀬加守先生でした。白髭が印象的でした。

西南学院の教職員やその子弟が多かったと記憶して

いますが、小学生も思い出すだけでも10名は下らな

かったでしょう。日曜学校が終わると玄関前の狭い

空き地で遊んだり、二階に上って礼拝を見学するの

が常でした。30年余りも前の事ですが、連盟の用務

で仙台から福岡に出かけて電車に乗った途端、「ス

ミオちゃん!?」と呼びかけられてビックリしたこ

とがあります。当時、九産大の学長だったと思いま

すが日曜学校仲間で、私より2年先輩のOさんでし

た。現在、連盟の副理事長を務めておられる松本素

代美さんのお連れ合い(故人)や教会役員を務めてお

られた西南学院関係の先生方の娘さんたちにも日曜

学校の同級生がいて、親しい遊び仲間でした。最近、

殊更のように福岡教会の、小学生時代のことが懐か

しく甦って来ます。戦時中にしては豪華なプレゼン

トを貰ったり、劇に興じたクリスマスばかりでなく、

むしろ福岡教会でのイースターにちなんだ野外礼拝

は、戦時中の緊張を補って余りあるものでした。ど

なたの邸宅だったかは知りませんでしたが、かなり

の規模の家の庭や物置、地下室等を尋ねまわって「卵

探し」を楽しんだこと、

広い庭で持ち寄った弁当を分かちあって舌鼓を打った

ことや90度に曲がった腰を運びながら大きなやかん

を片手に「お茶!お茶はいがですか」と群れを訪ねる

牧師夫人(沖縄伝道に長年従事された調清子先生の母

堂)の姿も強く印象に残っています。清子先生は教会

のオーガニストで、その妹の幸子(ゆきこ)先生が日曜

学校(現在の教会学校)のクラス担任でした。早世され

ましたが、忘れ難い方です。

所謂「団塊時代」のピークが後期高齢者となる「25

年問題」に直面している日本社会の喫緊の課題は教会

にも、少し違った形で大きな問いを投げかけています

が、子供たちが我が物顔に振舞える教会形成を今こそ、

真剣に考え、取り組む必要を痛感します。そのための

提案や祈りを互いに寄せ合おうではありませんか。

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