「『神の時』を見据えて」 マタイによる福音書 9章14~17節
今朝お読みしたマタイ福音書9章14~17節で、私たちはイエスの「福音」と、それまでのイスラエル社会が大切にしてきた「律法」がぶつかりあう光景を目にします。
さて、断食はイスラエル社会においては敬虔さ(信心深さ)のしるしでした。バプテスマのヨハネの弟子たちは師匠にならって節制し、断食していました。イエスご自身も、決して断食を軽視されませんでした。
しかし、イエスがここで教えられたのは「今」という時をどう過ごすかということです、「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」-15節より-。今まさに弟子たちは婚礼の客として花婿イエスの到来を喜んでいる・・・、そういう時だとイエスは言われるのです。ヨハネの弟子たちにとっては全く想像もしなかった「神ご自身が来られ、いっしょにいる」という出来事が起こったのです。ヨハネの弟子たちも、ファリサイ派の人たちも、行いによって神に近づくことが出来ると思っていました。しかし、イエスは「あなたたちが行いによって神に近づくのではなく、神ご自身があなたがたのただ中に来たのだ、否、いま来ているのだ」と熱く語られるのです。
それから、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」-14節より-というヨハネの弟子たちの言葉には、やはり自分を誇り、他人をおとしめようとする思いが読み取れます。どれだけ多く祈ったか、どれだけ多くのものを捧げたかが信仰の計りとなった時に、宗教は人を生かし、命を与えるという本来の機能を失ってしまうのです。
イエスは、私たちがまことの豊かさに生きるために、神の言葉を携えて来て下さり、宣教の生涯を過ごされました。そして十字架と復活によってすべての人に救いの道を備えて下さったのですが、彼が神の定められた時-十字架-を見据えて全力で「神の国」を宣べ伝えられたことを、レント(受難節)期間中のこの朝、あらためて聖書から読み取っていきたいのです。そして、私たちもその歩みに倣って信仰の生涯を全うしたいのです。
内田章二 協力牧師