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「会堂を建ててくれた」 泉清隆

ルカによる福音書7章5節に「わたしたちユダヤ

人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」と

あります。通常はユダヤ人と対立する立場のローマ

の百人隊長に対する言葉です。お互い対立する立場

であっても、和合して協力していることが書かれて

あります。同じような事が報じられていた記事があ

りましたので引用します。

東シナ海を望む長崎市樫山地区にある小高い山

「赤岳」。その麓にある天福寺、その寺は貧しく、

本堂の床は抜け落ちそうで、天井から雪が舞い込む

ありさまだった。お布施の収入は月6万円ほどしか

なく、檀家に改築費用を募っている最中の1978年、

少し離れた地区に住む人々が訪れ、約400万円もの

寄付を申し出た。仏教徒ではないという。「私たち

は潜伏キリシタンの子孫です。お寺のおかげで信仰

と命をつなぐことができました。少しでも恩返しが

したい」ということだった。1688年に建立された天

福寺は曹洞宗のお寺。にもかかわらず、キリスト教

が禁止され、厳しい取り締まりがあった江戸時代に、

危険を冒して潜伏キリシタンを檀家として受け入

れ、積極的にかくまっていた歴史がある。「数百年

後の恩返し」はあまりに突然であった。寄付を申し

出たカトリック信者たちは30人ほど。寄付の理由

をこう語った。「天福寺に何かあったときは助ける

ようにと、いろり端で代々伝えられてきたから」。

そして、信仰する教会への不義理と捉えられるのを

嫌がったのか、住職の塩屋さんに「自分たちの名前

を表に出さないで」と頼んだという。塩屋さんは、

数百年前にキリシタンを守った寺の先人たちの善行

に対して、本当に世代を超えて報いが来たと実感し

た。反対に、もし天福寺が当時、キリシタンを弾圧

する側に立っていたとしたら、今ごろどうなってい

たのだろうかとも思った。

江戸時代、キリシタンを取り締まっていたのは長

崎奉行所だが、そこからわずか2Kmほどの浦上地区

にもキリスト教徒たちは多くいた。1856年ごろ、こ

の地区の信徒たちがキリシタンと疑われる嫌疑が浮

上。当時「崩れ」と呼ばれた事件だ。信仰対象が没

収されることを危惧した浦上の信徒は、険しい峠を

夜中にひそかに越え、マリア観音像を天福寺に託し

たと伝えられる。その像は、今も本尊の隣に安置さ

わけではなく、樫山地区の潜伏キリシタンに預けた。

このキリシタンは捕縛されたが、像を預かったこと

を最後まで否定し、牢屋で亡くなった。

塩屋さんは、口を割らなかったのは天福寺を守ろうと

したからだと考える。権力者の迫害から、お寺とキリ

シタンが協力してお互いを守った歴史は「互いを認め

合う日本人の宗教観や自然観が成した業だと思う。寛

容の精神がなければ250年間も『潜伏』なんてでき

ない」と言う。

また、この、お寺とキリシタンの歴史を振り返りな

がら「現在の国際社会に深い懸念を感じる。米中両国

の覇権争いやウクライナ危機、イスラエルとイスラム

組織ハマスとの戦闘…。対立と分断が進み、他者への

寛容性を失っているように見えるからだ。そして「例

え『正義の戦い』であっても、してはいけない。いっ

たん戦うとお互いが『聖戦』を叫び、それぞれの一番

弱い人たちが犠牲になる。どんなにつらくてもお互い

厳しい節制をして非戦の覚悟を決めるのが、政治であ

り外交力だと思う」と。

(静岡新聞11月25日の記事。共同通信=下江祐成)

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