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「神の御業は未来形」 ルカによる福音書 19:1~10

いよいよ主イエスが処刑の地、エルサレムに向かう最後の場面です。イエスは弟子たちと一緒にリコの町に入り、そこを通過しようとされていました。その時、イエスはイチジク桑の木の上に身を潜めている一人の男を認め、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19:5)と語りかけたのです。ザアカイは必ずしも積極的にイエスとの出会いを求めていたのではありません。その直前(同18:35~)の物乞いをしている盲人が、追い払われてもすがりついて求めた姿とは対照的です。しかし、イエスはザアカイに目を止められ、御自身の意志として「泊まりたい」(→「泊まることにしている」との変更不可を現わす表現)と求めたのです。

ザアカイはこれに応えて急いで木から降り、イエスを家に迎え入れました。人々が自分を罪人扱いし遠ざける中で、自分の家に泊まって下さるお方がある!この喜びが彼の生き方を変えてしまうのです。彼は財産の半分を貧しい人々に施すこと、不当な利益でのもうけは4倍にして返すことを告白します。これが、イエスを迎え入れた結果です。

主イエスは、私たちの過去に関心を払いません。今、私たちの内に泊まることを求めるだけです。そして、主をお迎えした時に、私たちの「今」が明るくされ、「未来」に向かう生き方へと変えられるのです。それは、私の内に宿られたイエスが、「客人」としてではなく、「主人」となって、私たちの生き方を変えるからです。イエスを主としてお迎えすることで、私たちが、今と異なる新しい未来に生きることが出来ることを示唆しています。

ザアカイはイエスを家に招き入れ、新しい人生を獲得したのです。それはこれまで全く想像だにしなかった、隣人を自分の手段として利用する生き方からの解放、隣人を愛し、喜びを共有する生き方への転換でした。主イエスによってもたらされる救いの御業は常に未来形です。今、身を潜めている過去への思いを手放して、イエスを迎え入れ、イエスの手に自らを明け渡すなら、この未来が始まるのです。 

    TK生

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