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キリストから迫り来る恵み (エフェソの信徒への手紙1:3~7)

去る6月27、28日の二日間は、加来国生先生(筑紫野二日市教会牧師)をお迎えして「初夏のキリスト教の集い」が開催されました。私も、教会の方々による細やかな奉仕や、共に伝道することの苦労と喜びに与ることができて、感謝でいっぱいです。蒔かれた種がいつの日か実を結び刈り入れの時を迎えることを待ち望んでいます。

さて、お話しの中で、先生が悶々として働いていた時代に、通勤電車の往復で聖書を読み潰されていた証しは圧巻でした。先生は、「この聖書は、結局のところキリストが“私はあなたのために死んだのだから、あなたは生きなさい”という一言に尽きると気づいた」と仰っておられました。私は心から「アーメン」と応答しましたが、皆様は如何だったでしょうか。

なぜ心に悶々とした思いが立ちこめるのか?それは自分自身を赦せない、又、あの人この人を赦せない、との「心の傷」から湧き起る苛立ちがあるからではないでしょうか。しかし、そこに目を向けても解決は来ないのです。目を上げる。どこに上げるのか。十字架のキリストに目を上げるのです。そうすれば、「十字架につけられてしまったままのイエス・キリスト」(ガラテヤ3:1/岩波訳)が目に映るはずです。そして、十字架上のキリストから、「あなたの罪は私が贖った。心にかかるあの人の罪も贖った。だから愛の内に生きよ。」との迫りが押し寄せて来るのです。

キリスト教は「恵み」を語る世界です。しかし、その「恵み」は必ずしも自分に心地好いこと(恵まれたこと)を表しません。「恵み」はイエス・キリストを通して現れた「真理(真実)」と一つです(ヨハネ1:17)。信仰とはイエス・キリストにおいて実現されている真実をほめたたえて喜ぶことです。キリストの真実、即ち、キリストの血による贖いで私の、そしてあの人の罪の赦しも完成していること(エフェソ1:7)を喜ぶ、これこそ私たちの信仰の真髄なのです。この「輝かしい恵み」は、私たちの善し悪しに影響されず、100%神の側において完成されている事実、信仰で受け取るべき出来事なのです。十字架から迫り来る恵みに、ただ感謝!

                                                    TK生

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