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証し

今年2020年を迎えました。私は20代半ばでクリ スチャンとなりましたが、クリスチャンとして歩ん だ時間とそうでなかった時間と丁度半々位となりま した。「若き日にあなたの造り主を覚えよ」中高生 時代、キリスト教の学校に通っていましたので、礼 拝の中で、またキリスト教の授業の中でよく聞いて いた聖書の言葉です。ですが心に留まることは全く なく、むしろ自分の事は神様が云々というよりも、 自分自身でどうにかしなければならないと思ってい ました。しかしながら現実は生まれてきた家庭や育 つ環境、与えられた能力、自ら努力して得られるも の、得られないもの、各々違います。本当に平等で はない現実です。それに加えて自己肯定感の低さも 相まって自分は居ていいのだろうか、存在していて いいのだろうか、という不安をいつも抱えていまし た。自分でどうにかしなくてはと思いながらも何も 出来ない自分がいました。そのような学生生活の中 でも「私の目にあなたは価高く、貴く…」(イザヤ 書43:4)は時に私を支えてくれる聖書の言葉と なりました。

私は一人っ子ということもあり、とにかく幼少の 頃から両親が争わないようにはどうしたらいいの か、波風が立たない様にするには、私はどう立ち振 る舞えばいいのかというような事をいつも考えなが ら成長しました。あまり子供らしくいれる場ではな かったのだと自分自身が子育てをする中で、冷静に また客観的に理解できました。ですので、大人にな っても自分は居ていいのだろうかという思いは時折 顔を出しましたが、いつまでも育った環境等のせい にして苛立ちや憎しみを持って生きていく自分自身 も嫌になりました。先ほどの聖書の言葉、神様の目 には私も価高く映るという事は、両親を含め私の周 りにいる一人一人も神様の目には価高いという事に 気付かされます。その様なことを思う時、少しずつ ですが自分も居ていいのだなと思えるようになりま した。長い年月をかけ、水が石を穿つように何十年 かけてじんわりとそう思えるように成長させて頂い た感覚です。

私たちは一つ一つ違うものを与えられています。 自分の目には不平等に見えていたものは、神様の視その違いを認めあい助けあって働く時、その多様性ゆ えに素晴らしい働きが出来るという事を教会でも度々 見せて頂きました。「キリストにより体全体はあらゆる 節々が補いあって、おのおのの部分は分に応じて働い て体を成長させ自ら愛によって造りあげられていくの です。」(エフェソ4:16)「神の国」というのはこう いう世界の事なんだろうなと思います。 日々生活していく中においては、「神の国」はロマン だ、理想だと言われてしまうことも多いかもしれませ ん。けれども「神の国」という世界を知った者として、 大きな働きは出来ませんがこれからも神様に委ねつつ 歩んでいけたらと思います。「あなた方は、以前には暗 闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光 の子として歩みなさい。」(エフェソ4:8)

その違いを認めあい助けあって働く時、その多様性ゆ えに素晴らしい働きが出来るという事を教会でも度々 見せて頂きました。「キリストにより体全体はあらゆる 節々が補いあって、おのおのの部分は分に応じて働い て体を成長させ自ら愛によって造りあげられていくの です。」(エフェソ4:16)「神の国」というのはこう いう世界の事なんだろうなと思います。 日々生活していく中においては、「神の国」はロマン だ、理想だと言われてしまうことも多いかもしれませ ん。けれども「神の国」という世界を知った者として、 大きな働きは出来ませんがこれからも神様に委ねつつ 歩んでいけたらと思います。「あなた方は、以前には暗 闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光 の子として歩みなさい。」(エフェソ4:8)

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