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「神が与えた命」 泉清隆

51年前の2月19日、長野県軽井沢町の保養施

設で過激派グループ「連合赤軍」のメンバー5人が

人質をとって立てこもり、10日間に及ぶ銃撃戦で、

警察官ら3人が殺害された「あさま山荘事件」が起

りました。ロシアがウクライナに侵攻して1年が経

過して長期戦になることが予想されていることの憂

いと共に、この記事(「過ち認めない組織は暴走」2

/20朝日新聞)を興味深く読みました。その時の銃の

調達役だった雪野建作さん(75歳)の高校生時代は学

生運動が盛んで、当時はベトナム戦争のことが毎日

報道されていて、そのことに強い反発を感じていた。

「戦争の遂行に何とか打撃を与える闘争をしたい」

と、その情熱は抑えがたいものがあった。大学に入

ってからは、後に過激派組織と呼ばれるグループの

運動に加わり、労働運動系の「革命左派」に加入。

銃を入手しようとしたきっかけは、この「革命左派」

のリーダーが逮捕されたので、奪い返すためだった。

そのために交番を襲撃したが失敗して、仲間が1人

警察に射殺された。同志の死は組織に結束と緊張を

生み出し、今度は銃砲店を襲い銃を入手した。これ

は革命を成し遂げる上で仕方がない事だと思った

が、この闘争が正義かどうか、自分では考えなかっ

た。今思えば無責任だったと思う。銃を手に入れる

と組織は変化し、組織の指導部は警察や軍隊を殺傷

する闘いをするべきだと言った。雪野さんは、この

とき立ち止まり、もっと話し合えばよかった、警察

官を殺しても世論を味方につけることはできない、

突き詰めて考えたら武装闘争は間違っているという

ことが分かったのではないかと後になって思った。

1971年7月にこの「革命左派」は赤軍派と合流

して後の連合赤軍となり、雪野さんは8月に逮捕さ

れ、翌年の2月に拘置所内であの浅間山荘事件をラ

ジオで知ることになりました。

雪野さんは語ります。「連合赤軍の一連の事件を

経て、過ちを認めない組織は暴走するのだと気づき

ました。連合赤軍の誤りは、理想を実現するために

暴力に訴えたことです。そして1人犠牲者が出ると

後に引けなくなった。でも誤りは誤りなのだと認め

るべきだった。私自身の反省でもあります。だから

今、私たちの過ちを伝え続ける義務がある」と。

もう1人は連合赤軍元幹部の吉野雅邦受刑者(74

歳)。吉野受刑者は今も獄中です。吉野さんはベト

ナム戦争下に学生運動が全国に広がる中「当時の社

会体制が、ベトナム民衆や国内の底辺労働者の犠牲

の上に成り立つ罪悪的なもので、それに従順に生き

ることは彼らへの抑圧に加担することになる」と思

い込み武力による革命運動に身を投じたのです。

この吉野受刑者の裁判で裁判長を務めたのが石丸俊

彦さんです。2人は東京地裁の法廷で出会いました。

石丸さんは検察側の死刑求刑を退け無期懲役を言い渡

し、判決後に「法の名において生命を奪うようなこと

はしない。被告人自らその生命を断つことも神の与え

た生命であるから許さない。その全存在をかけて罪を

償って欲しい」と判決後に呼びかけました。石丸さん

は退官後1992年に吉野受刑者の両親を介して聖書を贈

呈し、その後毎年クリスマスカードを送り、2000年前

後から吉野受刑者の仮釈放を祈るという内容のカード

を送るようになり「私にできることがありましたら、

いくらでもお手伝いいたします」と書き添えていまし

た。石丸さんは2007年4月1日82歳で亡くなられました。

石丸さんは自分も間違ったら吉野受刑者のようになっ

ていたかもしれないというものがあったと記されてい

ました。

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