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《平和の砦の小石として》 内山賢次

戦争は人を殺し文化を破壊します。戦争は人間が

起こします。敗戦から79年後の現在まで、310万人

の犠牲者の上に平和が存立しています。「戦争は人

の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に

平和の砦を築かなければならない。(ユネスコ憲章

前文)」人間が起こした戦争はであれば、私たちは

人間の英知で集団的人殺しは封印することができま

す。★戦(いくさ)は、遠い存在ではありません。家

族の断絶状況、近所のいさかい、学校での孤立、無

気力な生活、介護生活の疲労困憊など明日に不安を

抱えて日々の生活を送っています。無関心から良好

な関係性を生み出したいものです。2022年2月のロ

シアによるウクライナ軍事侵攻、2023年10月のイス

ラエルによるガザ侵攻は顕著な“戦争”です。私た

ちの身近にある「戦争」に対して「平和の砦」の小

石を積み上げたいと決意し、加害者に敵意や憎悪に

駆り立てられることのないように手と手をとり合っ

ていくことを願っています。★<三度あった八幡大

空襲>1944(昭和19)年6月(被災面積2,000坪)と8

月(被災面積2万坪)に2回の空襲がありました。44

年6月の八幡空襲は本土空襲の始まりでした。こう

してマリアナ諸島から出撃したB29は日本全土を焼

き尽くしました。3回目は1945年8月8日の米軍に

よる空襲・焼夷弾投下でした。木造家屋の各地に上

空から重油をばら撒き次に焼夷弾を無差別に落とし

焼け野原にしました。熱風と焼け焦げた悪臭が漂い

八幡は焦土となり黒煙は空を覆いました。死傷者は

2,500名、災者数5万2,562人、被災戸数1万4千戸、

被災面積は90万坪でした。戦争で無差別に爆弾、焼

夷弾、海峡には機雷が投下されたのは世界で初めて

ではないでしょうか。1945(昭和20)年8月6日8時1

5分に広島に「新型爆弾」が落されたと伝わってき

ました。★八幡製鉄所で作られた鉄は兵器資材とし

て、旧小倉市には兵器工場の陸軍造幣廠が現在の勝

山公園にありました。平和といのちの旅ではここに

設立された北九州市平和ミュージアムを最初に訪ね

ます。そこに動員された方々は女学校、旧制中学校

の生徒の皆さんも命令で兵器を作らされていまし

た。連合国軍はこの造幣廠に2番目の「新型爆弾」

といわれた原子爆弾を落とすことにしていました。

しかし、8月8日の八幡の空襲後、翌日8月9日は

その残煙と天候不順によって連合国軍は目標を小倉

に定めることができず、第3目標の長崎に変更しま

した。★こうして長崎に11時2分、プルトニウム23

9の原子爆弾が投下され7万4千人のいのちが一瞬

にして奪われました。

第3回の八幡大空襲は連合国軍にとっては降伏を受諾

させる重要事項でした。8月9日、小倉にプルトニウ

ム型の原子爆弾が投下されていれば、北九州の人々は

放射能汚染の後遺症に悩まされて続けたでしょう。日

本政府は8月14日午後11時の御前会議でポツダム宣言

受諾する無条件降伏を決定し、1945年8月15日を迎え

ました。★八幡東区高見の谷口霊園に「戦災洵難者之

碑」、旧八幡市民会館前のロータリーに「戦災復興の平

和祈念像」、小伊藤山公園、龍潜寺(祇園原町)に慰霊碑

が建立されています。★人間を人間が殺すことも殺さ

れることもない地球号“シャローム”でありたいと願

います。このいのちを大事にして隣人を慮っていきた

いものです。戦争の体験者とそれを語る方は減少して

いますが、平和の精神“シャローム”は誰もが語り継

ぐことが出来ます。平和は私たちの不断の努力で築か

れると思います。

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