証し Y.K.
- kogabaptist
- 9月20日
- 読了時間: 4分
私は子どもの頃から自分に自信のない人間でした。ち
ょっとしたことで注意されたり怒られたりすると、自分の
存在そのものを否定されたように感じて立ち直れなくな
ってしまうので、注意されること、怒られることをとても恐
れていました。もう少し大きくなってからはそれに加えて、
何かの、誰かの“役に立たなければ自分は存在する意
味がない”といつも心のどこかで考えていました。特別
大きな期待をかけられてきたわけでもないのですが、身
近な人を失望させることを必要以上に恐れていた子供
時代でした。
幼い頃から音楽は好きでしたが、中学で合唱と出会っ
てからはさらに歌うことが楽しくなりました。教会でも聖
歌隊に加えていただき、声をほめていただくこともありま
したが、そこはそれ、自信がないので「いや…」「そんなこ
とないです…」と、せっかくの喜ぶべき言葉も素直に受け
取ることができませんでした。謙遜しても、“謙遜な自分”
を演じているような後ろめたさがあり、「きっとお情けでほ
めてくれてるんだ」と相手の言葉を素直に受け取れず、
そんな自分がさらに嫌になる。今思うと当時の私は救い
ようのないほどひねくれていました。
変わりたい、けど思うように変われない。自分を責めて
みたり、周りに責任転嫁してみたり、もどかしさと自己嫌
悪の中で苦しみながら私は大学生活を送っていました。
転機の一つとなったのは、その頃参加していたキャンパ
ス・クルセードという大学生を対象としたクリスチャンサー
クルでくり返し語られた、「あなたはそのままで神さまの
最高傑作なんだよ」というメッセージでした。当時自分の
嫌いな部分しか見えていなかった私にとっては、「そんな
わけない。こんなに欠点しかないのに」とにわかには受け
入れがたいものでしたが、「神さま、よしえちゃんの“存在
を”ありがとうございます」と祈ってくれる友人やスタッフ
との交わりの中で、「ほかでもない神さまが“わたしがあ
なたをそのように造ったんだよ”と言ってくれているのに、
それを否定することは神さまを悲しませるんじゃないか」
と思うようになりました。変わるためには自分の嫌いな部
分、欠点をなくさなければ(今の自分の否定)という思い
から、今の私も私。でも良いところを伸ばせばもっと神さ
まに喜ばれるんじゃないか(自分自身を許す,受け入れ
る+α)という思いに変えられていきました。20年近く自
分を否定してきた人間が急には変われません。自分の
中での非常に緩やかな、でも大きなターニングポイント
だったように思います。
そこから私は使う言葉を変えました。特に音楽に関し
ては、嬉しいお声がけをいただいた時には「いえいえ」と
か「そんなことは…」ではなく、「ありがとうございます」と
意識して言葉にするようにしました。私にとってそれは、神
さまが差し出してくださった愛を思い切って素直に受け
取ったように、相手がかけてくださった言葉を素直に受け
取るということです。
そうしようと思うのは、その人が感じた感動や心の揺れが、
音楽を通して“私が”何事かをなしたのではなく、私を用い
て働いてくださった神さまに対するものだと感じるようになっ
たからです。自分が(で)しようとすると、賛美も奉仕も負担
や不安、傲慢な思いに駆られてしまいますが、神さまの働き
に私を用いてくださいとお委ねできたときには、そこには感
謝と希望と安心があると感じます。私は音楽が、歌うことが
好きです。音楽が神さまがくださった賜物だとすれば、その
善い管理者となれるよう、神さまに導かれつつ歩みたいと願
っています。
『あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざ
まな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさ
い。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人
は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのこ
とにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためで
す。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。』
Ⅰペトロ4:10-11
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