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転入会の証 M.K

私がバプテスマを受けたのは8歳の時、当時通っていた

東京第一バプテスト教会ででした。特伝の時、説教後に招

きの時間があり、たまたま隣にいた仲の良い教会のお兄さ

んに「ほら、一緒に前に行くよ」と、つつかれ言われるが

まま前に行き、あれよあれよという間にその年のクリスマ

スにバプテスマを受けることになりました。

自らの意思で、というわけではなかったものの、子供な

がらにその時は、罪で真っ黒になった心がイエス様によっ

て真っ白にきれいにされるんだ、と素直に喜んでいたのを

覚えています。

ただ、思春期になるにつれ真面目な私は、果たしてあん

な、人につられてのバプテスマで良かったんだろうか、受

け直した方が良いんじゃないか、と真剣に悩んだ時もあり

ました。

しかし、元来、全てにおいて疑い深く臆病な自分なので、

あの時バプテスマを受けていなければ、大人になってから

ではとても決心出来なかっただろうと、確かにあれが神様

の与えてくれた時だったのだ、と今は思っています。

さて、そんな石橋を叩いて渡らない性格の私ですが、福

岡に再び戻り一年以上が経ちました。その間、牧師先生か

ら転会の勧めもいただきましたし、自分の中でも早くそう

せねば、との思いはありましたが、ずるずると先延ばしに

し、この時まで来てしまいました。

石橋を叩いて渡らないどころか、叩くことすらしたくな

い私なので、新しい環境に馴染むのも、心が納得するのも

難しく、昨年は弱さの中にあるヨナになったり、ペトロや

トマス、時にはユダにもなり、イエス様に目を上げること

が出来ませんでした。

そんなことではいけない、という想いと、様々に心の折

り合いがなせない頑なな自分とのはざまで、転会する事に

も躊躇していました。

そんな中、この3月に父の病気が見つかり、また同じ時

期に家族の一員である猫も寿命に近い症状が現れたり、信

頼する友人との心のすれ違いなどが重なり、自分の心の支

えや拠り所となるもの全てが一気になくなってしまうよう

な恐怖におそわれました。

自分の心の居場所が見出せず、お先真っ暗、もう消えて

無くなってしまいたい、と願う毎日でした。

けれど、それら心の拠り所としていたものは、自分が偶

像としていたのであり、寿命も人の想いも自分の力ではど

うにも出来ないこと、全ては神様の時、神様のもの、と思

えた時、必死にしがみつき、また囚われていた自分自身か

ら少し解放され、神様に委ねることができたように思いま

す。

頑なな心が少し溶かされた今この時を、時間はかかりました

が、神様の与えてくれた時とし、古賀教会への転入をお願いし

たいと思います。

石橋は叩かなくても、落ちた時、受け止めてくれるイエス様

がいます。自分で前に進めない時は、担いで歩いてくれるイエ

ス様がいます。

でも、疑り深く臆病な私は、やはりこれからもしょっちゅう

つまずき、そんなイエス様がいることを信じられなくなるでし

ょう。そんな時、主の家族である皆さんの、とりなしの祈りが

私には必要です。イエス様に目を上げる為の支えが必要です。

どうか、こんな弱い私ですが、教会の輪に加えていただき、イ

エス様に繋げていただきたいと思います。そして、私もその中

で皆さんと共に祈り、支え合う者とされていきたいと願ってい

ます。

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