砕かれ悔いる心を待つ神 (詩編51編12~19節)
- 金子敬牧師
- 2015年3月14日
- 読了時間: 2分
紀元前1000年、今から3000年も前の出来事が今も語り継がれています。それは隆盛を極めたダビデ王の大失態の話です。聖書がこのような「恥ずべきこと」をいつまでも語り伝えているのは驚きです、と感じるのは、正に私が「恥意識」に支配されているからかもしれません。
ダビデ王はその絶対的権力を用い、部下ウリヤの妻バト・シェバを奪い、彼女が妊娠すると知ると、戦場からウリヤを呼び戻して、その子がウリヤの子であるかのように工作するのです。しかし、この企てが失敗すると、王は彼を戦場の最前線に送り、敵の手で殺されるように仕向けたのです。他人の妻を奪ったばかりか、その夫を殺させるという二重の罪を犯したのです。
ところが、ウリヤの戦死により誰にも知られなかったはずの策謀も、神の目には明らかでした。神は預言者ナタンを遣わして、ダビデの罪を指摘したのです。たとえ王の犯した罪であっても、聖書はこれをうやむやにせず公にし、語り継がせるのです。ダビデはイスラエル建国の王、イエス・キリストも「ダビデの子」と称されるごとく彼の系譜から誕生していますから、教会もまた、ダビデの恥ずべき行為でイエスの名を汚したくないところです。
しかし、この出来事を「罪」としてとらえる聖書は、たとえ王であってもその罪を公にするのです。即ち、神が遣わす預言者ナタンによってその罪を顕わにします。すると、何と、ダビデ王はその場で「わたしは主に罪を犯した」(サムエル記下12:13)と告白したのです。ここが、聖書の聖書たるゆえんでありましょう。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」(詩編51:19)とあります。「砕かれ悔いる心」こそが、神に喜ばれる献げものなのです。
「恥意識」に支配されている者にとって、これは容易なことではないでしょう。しかし、「恥意識」は加害者側の保身であり、「罪意識」は被害者に対する責任性から生じるものです。ダビデが後世にも名をはせる王として銘記されるのは、この潔さ、「砕かれ悔いる心」にあるからなのではないでしょうか。犯した罪の破れ口から見上げる十字架の主こそが、罪人に寄り添い、砕かれ悔いる心を受け取って下さる愛の神、真の救い主なのですから。
TK生
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