弱さを知る者を用いて (ヨハネによる福音書21章15~17節)
- 金子敬
- 2015年4月17日
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主イエスが公の生涯を歩まれた3年あまりの間、それは弟子たちにとって至福の日々でした。彼らは間近で主イエスの教えを聞き、病人や差別されている人々への優しいまなざしや、正義と公平への毅然とした態度にも接してきました。そのような日々の経験から、弟子たちは、「このお方こそイスラエルをローマの支配からも救い出す『救世主』に違いない」との確信を抱くまでになっていたに違いありません。
この期待の中で、主イエスの一番弟子と目されるペトロは、「誰よりも自分は主イエスさまを愛している」との確信を抱いていました。ところが、その敬慕している主イエスが簡単に官憲に逮捕され、更にペトロ自身にも「お前もあの仲間だ」と迫害の手が及ぶと、彼は「その人を知らない」とあっけなくイエスを否認してしまうのです。人間すべて強がってはいても、本当は弱いのです。自分の身に危険が迫ると、主人さえも捨ててしまうのです。
十字架刑から3日後の復活は(生前に主イエスご自身から聞いていたにもかかわらず)弟子たちには信じがたいことでした。そして、彼らは主のお言葉を信じえなかった不信仰の故に、身の置きどころもありません。ヨハネ福音書は、彼らが再び故郷で漁をしていたと、挫折の中にある彼らの姿を記しています。もはや、弟子としての再起はあり得なかったのです。
しかし、そのペトロに主イエスは問いかけたのです。「誰よりもわたしを愛するか」と。勿論、ペトロは主イエスを愛しています。でも最早、以前のように確信を持って「誰よりもあなたを愛しています」とは言い表せなかったのです。「わたしの愛を、あなたはご存じです」。これがペトロの精いっぱいの答えでした。主イエスは、この問いかけを繰り返される中で、ペトロの弱さに寄り添い、弱さに立つ彼の愛に期待されたのです。そうです、主を否むという大失敗の経験があるからこそ他者の弱さにも寄り添える、と。
主イエスは自信満々の人を用いません。むしろ弱さを知る者を用いて、ご自身の愛の業、平和と和解の福音を担う務めへと立てて下さるのです。弱い私の傍らに、主イエスはいつも伴っていて下さるのです。
TK生
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