神は存在するのか? (出エジプト記3:7~15)
- 金子敬
- 2015年4月25日
- 読了時間: 2分
日本には「困った時の神頼み」と言うことわざがあります。普段は「私は無神論者」だと気取っていても、いざ足許が危うくなれば「神さま助けて」となるのです。しかし、その時に呼びかける神さまとは果たして「誰」なのでしょうか?その時だけ都合よく現れてくれる守護神なのでしょうか。受験の神さま、安産の神さま、商売繁盛の神さま???
日本にプロテスタント・キリスト教が伝わったのは明治期です。そして、ほぼ同じころお隣の韓国にも宣教師による伝道が開始されています。しかし、現在のキリスト教人口は日本が約1%に対して、韓国は30%とも言われています。その差がどこに起因しているのか興味あるところですが、その要因の一つに、祈る時の呼びかけの違いを指摘する人もあります。日本の場合は「神さま・・・」と呼びかけますが、韓国では「ハナニム・・・」となります。「ハナ」とは「第一番目」を表し、この影響でしょうか日本でも「はなから」と言えば「最初から」の意味です。「ハナニム」とは「第一番目のお方」の意です。それは存在の起源であり、祈る人の存在を支える根拠ともなります。もはや、神さまは自分にとって利益をもたらす使用人ではなく、どんな時にも私がお従いすべき第一なるお方となるのです。
「神は存在するのか」との問いに対しては、その問い自体が日本人的発想であると知らされます。聖書は神の存在を証明する書物ではありません。神の存在を前提とする書物です。人が考え出した神々ではなく神の前に置かれた存在としての自分自身に向き合わされる書物なのです。
聖書は、神の名を「主(ヤハウェ)」と記します。その意味は「存在させしめる者」です。徹底的に、今ここにおられる神(=私の主)を意識させる表現です。まさに存在の根拠、全ての事柄の始まりが、神にあると知らされます。聖書は初めから終りに至るまで、「神はある」で満ちています。自己都合で持ちだされる神ではなく、良い時も悪い時も、どんな時にも共に存在される神、そのお方こそ私の存在を肯定される神です。だから私たちはこの方に信頼して生きて行くことができるのです。
TK生
Comments