人はどう生きるか?
- 金子政彦
- 2019年6月7日
- 読了時間: 2分
倫理学(ethics)という学 問 分 野があります。「 人 が ど う『善 く』生きるか ?」を 考える学 問です。混迷 の度合いを 深める 現 代 社会で、倫理 学や哲学を 改 め て志向する人々 が 増えているとも 聞きます。
これに 対し、「キリスト教倫理学」という分 野 が あります。「 神が、イエス・キリストを 通して、 私 に 何を望んでおられるか ?」、「 神の御心に、 私 が ど う 応えるか ?」を 考える学 問です。
同じ倫理学でも、 その主 語 が異なっている ことにお気づきだと 思いま す。 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙12:2で次 のように 語っています。
「あ なたがたは こ の 世 に 倣っては なりません。 む し ろ、心を新たにして 自分を 変えていただき、 何 が 神 の御心であるか、 何 が 善 い ことで、 神に喜ばれ、ま た完全なことであるかをわきまえるように な り な さ い。」 ここで言われている「 自分を 変えていただく」と は、 自 分自身 が納得し、理想とする 形 に 変えてもら うという ことでは なく、「 自分を、イエス・キリス トの 形に、 変えていただく」という ことです。
イエ スさまの人間としての 生き方として、「他人 は 救 っ たのに、 自分は 救 え ない」(マ ル コ15:31) と嘲笑 されるほどに、 死 に 至 る 最後の時まで、罪人 の 頭 と して 歩まれました。パウロは、イエスさまが、 私 た ちを 神の前で 生きる 者とする 為に、十字架につ け ら れたままに なっておられる、とも書いています。
こ れは、人間 の真実が、 自 分自身 の知恵や知識や努力 や節制では、 ど ん なにがんばっても 神の前で 善 く 生 きる ことができ な い存在である ことを示していま す。 私たちは、 自分で 自分は 救 え な い存在なのです。
神は、 そ んな私たちの先頭にイエスさまを 立てら れ、イエスさまの十字架 の 死 と復活 を 通して、 私 た ちに 対する 愛を示されました。
神 が 私たちに望んで おられる ことは、 私たちが 神 の 愛を受け取って 生 き る ことです。 神 の 愛を受け取るという ことは、イエ スさまのように他者 に 仕える 生き方をする こと。 そ れが、イエス・キリストの 形 と な る ことです。
神 は、 イエス・キリストをお見捨てには なりませんでし た。加えて、イエス・キリストを信 じ て連な る 者 を 見捨てる ことは ないと約束されています。 聖書は、イエス・キリストの 生き方( 形)を 提示し た 上で、 私たち ひとり ひとりに「 神の前であ なたは ど う 生きるか ?」と 語りか けています。
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