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「敵(あだ)を愛せよ」とのみ言葉に従いて

「敵(あだ)を愛せよ」とのみ言葉に従いて 「良きサマリヤ人の譬え」を読むたびに、わたし の神学生時代の恩師でもあり、西南学院、西南女学 院の院長も務められたギャロット先生の面影が甦っ てきます。西南女学院では「要」という文字を学院 のシンボルのように大切にしていると聞いています が、これはギャロット先生が在任中に語られた講話 やエッセイを纏めた「要」という小冊子の前書きで 先生が「『かなめ』が人生に、また学校になければ なりません。また、それは神の御心でなければなら ない。それは私の出発点でした。『西南』と『女学 院』の頭文字を合わせると『要』になることに気付 きました。これはしめた!と思って好んで使ってい ます」と述べておられますから先生の発案であった ことは間違いないでしょう。日本人をしのぐほどに 日本語に堪能な先生は、尺八を奏で、畳の上で正座 も厭わないほど日本に馴染み、日本人を愛された方 でした。満州事変が始まった3年後の1934年に米国 南部バプテスト連盟の派遣宣教師として来日、戦時 体制が強まり排米思想が広がるばかりが、真珠湾攻 撃で明確に敵・味方に分かれてしまってからも先生 は最後まで日本に留まり、半年余りの抑留生活の後、 強制的に帰国させられます。そして米国では兵役を 拒否、日本人収容所での奉仕活動に専念されます。 戦時中の米国における排日思想や日本人に対する憎 悪感、敵対意識は大変なものだったことが近年、改 めて明らかにされていますが、日本ではそれどころ ではありませんでした。戦争は兄弟も敵・味方に分 かち、憎しみを増幅させていきます。しかし、その ような中でギャロット先生が、日本について語るこ とを求められた全米的なある集会で、涙を浮かべな がら一言も発することが出来ずに講壇を降りられた というエピソードは良く知られています。戦時中に ギャロット先生を知ることで、日本への召命を与え られた数名の宣教師をわたしは知っています。敵と して対峙する人々の中に隣人を見出し手を差し伸べ ること、それこそ福音の本義に外なりません。幼い 頃の小児まひの後遺症で幾分不自由な右手脇に聖書 を抱えるようにして、愛唱讃美歌の「敵を愛せよと のみ言葉に従いて」(教団讃美歌389番)を力強く歌 っておられた先生の姿をわたしは昨日のことのよう に思い出します。「敵を愛せよとの、み言葉に従い て/愛と平和との道を、絶えず進みゆけ。/世の人の 汝(なれ)を憎み、苦しむる時だにも/愛の主の如 くに、ひたすら愛せよ」(1節)。「ひたすら愛すれば、 敵もなお友となる/げにもくすしきみ恵みを、日に 日にあじわい/亡び行く四方の民に、み言葉伝えつ つ/愛の主のごとくに、良きわざを励め」(3節)を 心に刻み、歌いながら歩み続けたいと思います。

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