top of page

聖書にある四つの「祈り」

私は地元の方言を研究して『ケセン語訳聖書』をつくりましたが、その過程で、こうした「われわれが神さまに対して取るべき態度」について、さらに考えさせられるようになりました。そして「祈り」ということは何を意味するのかについて、一生懸命考えました。日本聖書協会、新共同訳聖書で、この中の新約聖書四福音書に、「祈」という文字がいくつあるか全部数えてみたら、70ありました。そのもとになっている古代のギリシャ語の聖書で「祈」を全部チェックしてみたら、「祈り・祈る」と訳されているギリシャ語の単語は四つあることがわかりました。でも、日本語ではそれらを全部一括して「祈り」と訳しています。

エウロゲオー(eulogew)「ほめる、賛美する」。エウカリステオー(euxaristew)「ありがたい」という感謝。デオマイ(deomai)「願う」。プロセウコマイ(proseuxomai)「祈る」。

 まず「ほめる、賛美する」という意味のエウロゲオーという言葉ですが、これは神さまをはめたたえる心です。朝日が昇るのを見れば、「神さまは何てすばらしい方だ」と思う。こうやって「ほめる、賛美する」ことも「祈り」なのです。

 次はエウカリステオーです。これは「ありがたい」という感謝を意味します。「神さま、今日もこうして生きています。ありがとうございます!」と、このような感謝をエウカリステオーと言います。

 もう一つはデオマイで、「願う」という意味です。「神さま、どうぞ、こうしてください、ああしてください」と、ユダヤ人も神さまにいろいろお願いします。決してお願いしてはいけないとは言っていません。お願いしてもいいのです。神さまからの私たちへの望み、願いがあり、私たちも神さまにお願いしたいことがいろいろあります。お互いに思いあうのです。

 次はプロセウコマイという言葉で、辞書での意味は「祈る」。名詞形のプロセウケーを含め、四つの「祈り」の中で、51といちばん多く使われているのですが、いったい何を祈る(=神さまにお願いする)のか、願いの内容がほとんど書いてないのです。マタイ福音書14章23節「(イエスは)祈る(プロセウコマイ)ためにひとり山にお登りになった」とあります。何を神さまにお願いしに行ったのでしょうか。そして、マルコ福音書11章24節「祈り(プロセウコマイ)求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」とあります。こんな都合のいいことがありましょうか。現実の人生では、いくら祈っても、いくら願っても、かなわないことがあまりにも多い。しかし悪いのはこの翻訳だと私は思います。この「プロセウコマイ」とは何のことでしょうか。イエスさまがユダヤ教徒だったということでした。神さまとの対話をことのほか重んじるユダヤ教徒が一番大切にしているのは、申命記6章4節にある、「聞け、イスラエルよ」 です。「シュマー、イスラエル」です。シュマーというのは、「聞け」という意味です。「神さまのおっしゃることを聞け」という意味です。つまり、神さまはわれわれのど主人様である。われわれは神さまに何かものを要求する立場にはない。われわれのほうが道具である。だから何をしたらいいでしょうか、何をしたら神さまはお喜びになりますかということを神さまに聞きなさい。「神さまのお言葉を聞け、イスラエル」という呼びかけなのです。つまり、新約聖書の中にたくさん出てくるこのプロセウコマイは、日本語の「祈る=願う」というよりも、「神さまのお言葉に耳を傾ける」という意味だろうと思います。そうすると納得がいきます。

3・11後を生きる 「なぜ」と問わない 山浦玄嗣著より編集しました。

Featured Posts
Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
bottom of page