「裁き」と「審き」
ヨハネによる福音書には、正反対のイエスさまの言葉が記されています。
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」 (ヨハネ3:17)
「イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』」(ヨハネ9:39)
イエスさまは、この世を裁くために来られたのでしょうか?救うために来られたのでしょうか?原語を見ると、「裁く」と訳されている言葉は、3:17→krisis、9:39→krimaで、ほとんど同じ意味といいます。日本語訳聖書では、新共同訳、聖書協会共同訳では「裁く」、口語訳では「さばく」とひらがな表記、文語訳では「審判」という言葉に‘さばき’とふりがなをふっています。英語訳聖書(King James version)では、3:17→to condemn:罪の宣告、9:39→judgment:審判、判断と訳し分けています。
ヨハネによる福音書を通読してみると、その疑問は晴れてきます。ヨハネ3:16には、「小さな聖書」といわれる極めて重要なイエスさまの言葉が記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」続きの17節「世を裁くためではなく」とは、イエスさまによって、私たちが神の前で的外れな生き方から解放され、神と共に生きる者とされたことを宣言しています。
対して9:39の「裁くため」とは、ヨハネ3:16~17の神の赦し(解放)の宣言を受けて、私たち一人ひとりが、どう生きるか?その選び取り方が問われています。『神が示された命への道(イエス・キリスト)に向かって生きますか?それとも命の道から外れて、自分中心の価値観で歩みますか?あなたのその選び取り方によって、審判(judgment)されていますよ。』9:39の「さばき:審き」(judgment)とは、私たちの選び取りに対する判定のことをいっています。私たちは、イエスさまと出会い、イエスさまの生き方に学び、イエスさまを信頼して、神と隣人と共に生きる生き方に招かれています。「自分は見えている」、「分かっている」とかたくなにならないで、見えていない、分かっていない自分を認め、神の招きに従って生きる者になりなさい。この正反対のイエスさまの言葉には、そのような大切なメッセージが込められているのです。