「不条理なイエス・キリストの十字架」 泉清隆
先日の西南学院大学神学部の卒業礼拝で花小金井教会の藤井秀一牧師が引用されたケセン語訳聖書翻訳者、医師の山浦玄嗣(はるつぐ)さんの被災地からの叫びからの引用です。
震災後少し落ち着くと、私のところにテレビ、新聞、雑誌などのインタビューが殺到してきました。今回の震災の模様や体験、感想を聞きたいというものでしたが、それは私が医者だからではなく、ケセン語訳聖書を翻訳したからです。「あなたはキリスト教信者だ。日本人でキリスト教になっているのは100人に1人くらいしかいないのだから、かなり珍しい部類である。そういう人から、信仰者としての目でこの災害を見て、どう考えるかをぜひ聞きたい」というような申し出ばかりでした。そして、彼らは皆、判で押したようにこう言うのです。「東北の人たちは非常に我慢強い。何事に関しても実に黙々と耐えている。まことに立派だ。そして善良であり、正直である」。このように前置きしてから、こんな質問を投げかけてきました。「こういう実直で勤勉な立派な人々が、なぜこんな目に遭わなければならないのか。神さまはこういう人たちを、いったいなぜこんなむごい目に遭わせるのか。あなたは信仰者としてどう思いますか」驚きました。そんなことは夢にも考えたこともなかったからです。考えたこともないことに返事をしろなんて、全く途方に暮れてしまいました。ところがどういうわけか、来る入来る人みんな同じことを尋ねるのです。そのしつこさに、だんだん腹が立ってきました。私はあの惨害のさなかに、何千人という気仙の人間を診ました。そして涙ながらにその悲惨な話を聞きました。彼らと一緒に泣きました。女房を亡くしたり、亭主を亡くしたり、子どもを亡くしたり、親を亡くしたり、そういう人たちと一緒に泣いてきました。けれども、「なして、おらアこんたな目に遭わねァばなんねァんだべ」という恨み言を聞いたことはただの一度もありません。これははっきり申し上げておきます。ただの一度もない。私は本当に不思議に思います。それで、同級生仲間と何人かで集まったときにその話をしてみました。「いや、こういうわげでな、おれ、困ってんだども、お前だぢァそんたなどどオ考えっか?」聞かれたその友だちも怒りだして言うんです。「気仙衆ァネズミだってそんたなどどォ考えねァ」。それでみんなで考えました。「とにかぐ来る人だぢァ判で押したように同しこどォ語る。なしてだべな?」そして出た結論は、「暇だがらでねァが?」でした。われわれは忙しくてそんなこと考えている暇はない、今は生きることで大変なのです。 津波が来た3月11日はちょうど四旬節中だったということもあり、イエスの受難と重ね合わせて考えるところもありました。
イエスは十字架にかけられて、死ぬ直前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫びます。マタイによる福音書27節46節です。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。しかし、これは決してイエスの絶望の言葉ではありません。詩編にあるダビデ王の雄揮な詩編22編2~6節を引用しょうとして、途中で力尽きたのだと私は信じています。「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず坤きも言葉も聞いてくださられないのか。わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいましイスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み 依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」今回のような震災が起きたことを「不条理」と捉える向きもありましたが、そもそも生そのものが不条理とも言えます。
(3・11後を生きる「なぜ」と問わないから引用一部編集)
私はこの「不条理」という言葉が本当に当てはまるのが、イエス・キリストの十字架の死であると思います。
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