「小倉メモリアスクロスの記憶」 金子純雄
北九州市小倉北区の市街地を一望にする足立山麓の小高い丘に高さ20メートルの十字架が立っています。牧師としての一歩を踏み出した小倉教会時代に中高生達と一緒に良く出かけた懐かしい所です。合同祈祷会等も行われていました。
表記題名の図書を当時の高校生の一人が贈ってくれました。副題に「日本とフィリピンとの国交回復に尽くしたYMCA」とあります。著者の安東邦昭氏は北九州YMCAで総主事・常務理事を務めた方で、第1章の小倉YMCA設立事情の中で、小倉で私自身が随分お世話になった方々のことが紹介されていて、とても懐かしく思いました。
YMCA設立と相前後して勃発した朝鮮戦争は同胞相食む激烈なものであり、東西対立の象徴的な悲劇でしたが、小倉はかつて陸軍造兵廠や弾薬庫などがある軍都として知られ、広島に次ぐ第二の原爆投下地とされていました。当日の気象状況から標的が急遽、長崎に変更されたことも今では良く知られていますが、朝鮮戦争の際には連合軍の最前線基地として司令部が設けられ、兵員や武器の輸送基地、また、おびただしい戦死者や戦傷者が搬入される街でもありました。そのような中で設立された小倉YMCAと米軍司令官との間で戦死者を弔い、平和を祈るために十字架の建立が協議され、当時の米軍用地、今は桜の名所ともなっている足立公園の一隅に朝鮮半島に向かって十字架がそびえ立つことになります。1951年6月に盛大な除幕式が行われました。
副題の意味は第3章に述べられています。戦争犯罪を裁く軍事法廷はA級戦犯の東京裁判の他にB・C級戦犯を裁く現地法廷があり、罪に問われた人々が次々に死刑を宣告され、処刑されました。中には不正確な情報で戦犯に定められたり、濡れ衣を蒙った人たちもいましたが、被害を蒙った現地の人々の国民感情は厳しく、再審などは容易ではなく、戦犯とされた人々の多くが故国に戻る望みを絶たれ、処刑を待つばかりでした。彼らの切なさ、加えてその家族の思いはいかばかりだったことか、処刑された人々の中にはクリスチャンの軍医もいます。フィリピンのモンテンルパ収容所のことは渡辺はま子の歌でも紹介され、多くの日本人の涙を誘い、これらの戦犯の減刑や赦免を求める動きが全国的に拡がっていきます。小倉出身者の中にも二人の戦犯とされた人が処刑を待つ日々を過ごしていました。小倉YMCAでは彼らの助命のために様々な伝手を尋ねて動き出します。
当時のフィリピンのキリノ大統領は目の前で妻子を日本軍に惨殺された体験者です。また彼の背後には同様に日本軍によって肉親の命を始め多大の被害を蒙ったフィリピンの国民感情があり、次の大統領選も間近に、助命や減刑は到底叶わない状況でした。しかし、その彼はメモリアルクロスの写真を目にしたとき、日本にも十字架が立てられていることに深く感銘し、大統領として赦免・減刑を決意し、署名します。多くの戦犯が赦され故国の土を踏むことが出来ました。彼は敬虔なカトリック教徒でした。次の大統領戦では健康の問題もあったようですが、敗退します。しかし、十字架を仰ぐことで多くの人命が救われました。十字架を仰ぎ、その意味に思いを馳せる時、私たちも心から十字架の主に感謝と讃美を捧げ、その主に倣う第一歩を踏み出すことが出来るのではないでしょうか。
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