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「神さまとはどういう存在ですか」   泉清隆

召された井上洋治神父の「キリスト教がよく分かる本」より、引用します。

 神さまは、色もなければ形もなく、匂いもありません。従って目で見たり、さわったりすることができないのはもちろんのことですが、私たちが決してその外にでることのできない方なのです。外にでること、外に立つことができないということは、対象としえないということです。

 そして対象としえない、対象化できないということは言語化できない、言語で表現することはできないということになります。ですから神さまとは、まず「曰く言い難き方」ということになるでしょう。

 私たちの目は、人でも草でも木でも動物でも何でも見ることができます。それは目がこれらのものの外に立っているからです。しかし外にあるものは見えても、私たちの目は自分の顔を見ることはできません。目は顔によってささえられていて初めていろいろなものを見ることができますが、顔は見えません。それと同じように、私たちの理性は、対象についていろいろと考え、分析したり総合したりすることができますが、理性をささえているもの、その外に立つことのできないものについては考えることができません。

 それについて考えることのできない、言葉にならないものですから、神さまは、もし呼ぶとすれば、存在者を存在せしめている存在そのものとか、あるいは絶対無とか呼ぶのが一番ふさわしいのかもしれません。「無」というのは、ある物があるとかないとかいう次元の無ではなくて、(対象化できない)絶対に言語化しえないという意味での「無」であることはもちろんです。

 またこんなたとえでも少しわかりやすくなるかもしれません。いま小さなビールスが一人の人間A氏のからだの中で生まれたとします。そしてからだ中をめぐつたとします。そのからだ中をめぐったビールスについて、何があったかと質問したとしたら、彼はおそらく、胃があった、腎臓があった、肝臓があった、などなどと答えるでしょう。しかし彼はおそらくA氏があったとは言わないでしょう。なぜなら、このビールスは決してA氏のからだの外に出たことがないために、A氏と出会うことが遂にないからです。このビールスがA氏の存在に気づくためには、前へ前へとさがし歩いても駄目なので、静かにふっと立ちどまって、自分を生かしめている風を背中に感じとる以外にはないでしょう。

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」という古歌がありますが、ちょうどこんなものかもしれません。秋はどこだ、秋はどこに来たんだと言って、忙しく走りまわっても秋が来たことはわからないので、むしろ静かに立ちどまって風のささやきに耳を傾けたときに、秋の訪れがかえって感じられるようなものなのでしょう。その意味では、形も色もなく、対象化、言語化もできない神さまが何処にいるのか、ときかれても返事に困るわけですが、強いて言えば、やはり神さまは前や上におられるのではなく、後ろからしっかりと私たちを抱きとっていてくださる方だと言えましょう。

 ですから、どんなに目を皿のようにし、理性をフル回転させて、前へ前へと神さまを求めても、決して神さまを見つけだすことはできないでしょう。静かに立ちどまることこれが「祈り」というものだと私は思っています。忙しさに自分を失ってしまうことなく、時に精神的に立ち止まることによって、私たちは神さまのまなざしを感じることができるはずだと思います。



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