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「魂の命題~学術会議任免の本質」  内山賢次

就活シーズンのコロナ危機下での大学生の就職活動もリモートによる面接などへと様変わりをしてきた。企業の人事担当者は採用において創意工夫をされ慎重を期してきたことだろう。採用後、民間企業は業績の伸長に際して任命、降格、退職、出向などの任免は利潤に繋がるか否か、またプロスポーツ界では選手の出場の是非は監督の采配となり雇用主、オーナーは任免、異動に関して当事者への説明はないだろう。★経営者は選手の異動で勝率を上げ、社員の任免で企業の経済的存在・価値を高める。経営者は社員、委員、選手、メンバーの選択で生産性が高まり班、部の営業目標売上げが右上がりとなると分析すれば即断し勇断をもって行うであろう。オーナー(「権力者」)の経営判断は絶対的なものである。卑近な例では「半沢直樹」が銀行本店から関連会社への出向を思い出せばこの首脳陣の采配は納得しやすい。★がしかし、非営利団体ではそうはいかない。この人さえいなければチームはまとまるといって出向という名の排除、除外をしてはならない分「野」がある。地域活動の基盤となる協議会はその一つといえるが教育分野はその代表である。現在、学校を選ぶことは一定の条件で可能で私立学校の選択肢もある。が民間企業では配属も上司も選ぶことは出来ないことと同様で入学後、一般的にはクラスもクラスの仲間も担任も選ぶことはできない。★子どもを受入れ教育活動が始まると子どもの個性が見えてワクワクもする一方、遅刻する、乱暴をする、教師の指導に背を向けるなど問題も露見してくる。その解決に向かって成長を促し援助することが教師の仕事でそこに使命を感じて教職の道を選ぶ学生もいることだろう。新任教師は一日も早く担任になることを夢見る。その肝はこの子さえいなければ班活動が充実し楽しく、上手にクラス運営ができると思っても「外す」権限は担任にはない。あってはならない。教育者は権力者ではない。★菅内閣が発足したばかりの「学術会議の6名任命問題」の本質をここから読みとること出来る。「この子さえ」いなければそれはクラス担任、教育者の禁句だ。すべての児童・生徒を受け入れ一人一人の子どもに尊厳を抱いてチームでマネージメントすることが基本である。教師がやりたいような学校運営は健全ではない。学校の方針、規則に反していると言う事由でその子を追い出すことは簡単だ。それは教育の本質を逸している。

★学校教育の主人公は児童・生徒であり、教師のために入学したのではない。「みんなちがってみんないい」こそが教育現場である。現場には障がい者も包括して邪魔者は一人として存在はしない。「この子さえ」観は政治の世界、地域社会にも定着してはならない。★「日本学術会議の新会員が6人任命されなかった問題」は任命権者(「権力者」)の魂に関わる命題であると弁別している。魂に関わる命題とは、人間の多様性を受容し自我を超越して他者を愛することだ。思想信条を尊重し多様な価値観に尊厳を抱くことは「権力者」、教え導く者の規範である。魂には色も形も性別も重さもない。見解の違いが存在することは普通であり、他者を愛する行為にはバリアも条件も無いということだ。政治活動にも愛は必須である。

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