信仰の度合い 金子政彦
『わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。』(ローマ12:3)
「信仰の度合い」と訳されていることばは、原語では「メトロン」で、尺度、はかりという意味がある。口語訳聖書では、「信仰の秤にしたがって」と訳される。ここで注意が必要なことがある。「信仰の度合いに応じて」とは、自分の心の中の秤にかけて、自分で「できる」、「できない」、「よい」、「わるい」を判断してよいと言われているのではない。ここで使徒パウロは、「与えられた恵みによって…言います」とことわっている。パウロが自分の価値観で勧めていることではなく、神に与えられたこと=神に示されたことであると前置きしている。加えて「信仰の度合い」についても、「神が各自に分け与えて下さった」信仰の度合いと、同じような前置きがある。「神から与えられた」、「神が分け与えて下さった」信仰。イエス・キリストを信じる信仰は、人が自分勝手に持つことのできないもので、信仰の秤についても、人が自分の都合で、自由に判断してよいものではない、イエス・キリストの判断として示される=与えられる必要のあるものである。
クリスチャンになりたての頃、私は、与えられる信仰について、非常に戸惑ったことを思い出す。
「目には見えず、声も聞こえない神の判断や指示をどうやって知ればよいのか?」
「自分で判断することを戒められるのであれば、私自身は、何もすることができないではないか?」
極端に考える癖のある私は、「神から、何かはっきりと示されるまで、『慎んで』何もしないでおこう」そう考えて、一切の能動的判断を放棄しようとした時期があった。今考えると、非常に恥ずかしい。しかし、その当時は、それなりに真剣に考えていた。
私のそのようなバランスの悪さを、当時の牧師は見抜いておられた。そして、私に「聖書を読むこと」、「祈ること」をアドバイスして下さった。それから、30年ほどの時間が経とうとしている。私の生来のバランスの悪さは、いまだに残っているが、今、当時の自分を振り返ると、当時の私に決定的に足りていなかったことに気が付く
私は、聖書に記されているイエス・キリストとしっかり向き合っていなかった。また、祈るとき、「イエスさま、教えてください」とイエスご自身に訊ね求める祈りに欠けていた。牧師の伴走を受けながら、私は、聖書の中でイエスがなさったこと、イエスがおっしゃったことに注目して、少しずつ、何年も時間をかけて、聖書のみ言葉を確認していった。そして、牧師が自身をゆだねつつ祈る祈り、「イエスさま、みこころがなりますように」、「イエスさま、私が今、なすべきことを示してください」という、イエスに能動的に訊ね求める祈りを参考にするようになった。
私には、未だにイエスの声は聞こえない。しかし、日常生活の中で、聖書の中のイエスが何を求めておられるのか、祈り、訊ね求める習慣が与えられた。そして、この30年で、私が私の隣人と日常生活の中で交流するとき、そこにイエスの気配を感じることがある。そのような経験を与えられた。
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