転入会の証 H.N
私は1949年3月、福岡市博多区で生まれ、そのまま幼少期、青年期を過ごしました。私が高校3年生の夏休みの時、父親と生きていく意味等いろんな話しをしていた時、父は突然「お前はいつか、教会に行ったらどうかな」と勧めてくれました。その時はなんの話しかなと思っていました。そのような父も私が高校3年生の冬、2月の寒い朝、会社勤めに出る時、自宅で急逝しました。もう、54年前になります。当時18歳になったばかりの私は、人間は必ず死ぬのだな。一番信頼していた父親でも亡くなるのだなと思いました。人は必ず死ぬならば、これから何を頼って生きていったらいいのか、いろいろ悩み、考えていました。そのような中、西南学院大学に入学し、礼拝に出席し、初めて賛美歌を歌った時、「あー父親に会えた」と嬉しくなり、心が満たされる思いがしました。それからキリスト教につながり、教会生活が始まったと思います。その後判ったことですが、父は大阪で苦学生をしていた時、教会に通い、心の支えとしていたようだということでした。その後、神様に守られ、家族にも恵まれ、順調な日々を過ごしていましたが、今から18年ほど前になりますが、54歳の時、朝ひげを剃っているとき、左顎下が変に膨らんでいることに気付きました。その頃は、仕事も忙しく、歯槽膿漏のせいでだろうと思っていました。しかし、3月中旬ごろ、急に熱がでて、顎下の腫れも治らないので、気になって、病院で診てもらいました。しかし、しばらく様子を見ましょうということになりました。その後、やはり気になりますので、耳鼻咽喉科で診てもらいましたら、これは大変だということで、CTをとってくるようにいわれました。私もその写真を見ましたが、左顎下から耳の上まで、玉子大の腫瘍が写っていました。「これは、なんだ。立派な腫瘍だな」と他人事のようにレントゲン写真を見ていました。それから、九州大学病院を紹介され、7月に手術を受けましたが、手術の前夜、Drから説明があり、「腫瘍のできた場所が悪い、大変難しい手術になる。多くの神経が通っている頸部では神経を傷つける恐れがある。その結果、声が出なくなる、顔面麻痺になる、左腕が上がらなくなる可能性がある」といわれ、説明を聞いて、怖くなり手術を取りやめる患者さんもあるそうですが、私は手術をお願いしました。手術の後、腫瘍検査では、良性でしたが、声が出なくなりました。声帯につながっている神経を傷つけてしまったということでした。職場に復帰しましたが、声が出ません。出ても小さな声でした。大きな部屋での会議では私の声は聞き取れないようでした。これでは仕事になりません。これからも仕事が続けられるか、家族を養っていけるのか大変不安になりました。そんな中、2か月たった9月の大学チャペルに出席しました。讃美歌を讃美していた時、「主よ、飲むべき、わが杯 選び取りて、授けたまえ。
喜びをも、悲しみをも、満たしたもう、そのまま受けん。」と私は声が出ませんので、口をパクパクさせながら歌っていましたら、突然、あー、こんな私でも、神様は守っていてくださっていると気づかされ、嬉しくて涙があふれ出ました。その後、声帯の手術を受けて、何とかガラガラ声が出るようになり、18年たった今では、ほぼ正常に戻りつつあります。マルコ伝14.36「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」はゲッセマネの祈りの一節です。イエス様は十字架の苦しみから逃れたいと望まれていましたが、それが神様のみ心ならば受けますとする。神様に対する最大の信頼の祈りであると教えられました。私にとりましても、声が出なくなったことは、「苦い杯」であり、「取り除いていただきたい杯」でしたが、神様のみ心として「飲むべきわが杯」として受けたとき、神様のお守りに気付かされて、深く感謝しました。その後、いくつかの病にも罹りましたが、神様の見守りの中にあり、日々の生活、信仰生活をおくっていくことが、できていることを感謝しています。「思い煩いは、何もかも神様にお任せしなさい。神があなた方の事を心にかけていて下さるからです」私が日々励まされている聖句です。このような罪深き私ですが、古賀バプテスト教会の皆さま方と共に信仰生活を守りたいと願っていますので、よろしくお願いいたします
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