転入会の証し R.S
私は1958年に福岡県田川郡赤村という田舎に生まれました。朝の日の出が10時半、日没が3時半という大変な山間の田舎です。高齢化過疎化が進み、現在は、人より、鹿、猪などのほうが多くなっています。今も村の風景は子供の時のままですが。
私立大学卒業後、福岡市内で中学の教員として働いておりました。勤めだした頃は、学校がとても荒れていた時期でした。いじめや校内暴力、器物破損、恐喝、家出、窃盗、シンナー吸引という問題を抱えた生徒の数多くいる学校にいました。毎日が映画の中の世界でした。5度ほど眼鏡を叩き割られましたが、生徒指導で疲れ果てていました。バーンアウトした同僚が一人電車に飛び込みました。彼が担任していた教室の壁には、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」が貼られていたことを記憶しています。私が、最初に担任したクラスの合唱コンクールの自由曲は「ひとつ朝」でした。荒れた学校の中での力強い素晴らしい歌唱でした。文化祭で生徒たちが描いたトトロの砂絵や冬に川にやってくる水鳥の美しさも覚えています。
そのころ30代で、父がALSという難病になり週末に田川の病院に8年程泊るという事を続けていた折り、ある夜、同部屋の私と同世代の男性が、糖尿病から脳をやられ悶え苦しんで亡くなる情景を見て、死の恐怖を味わい、興味をもって通っていた教会で洗礼を希望し、1993年に洗礼をその教会で受けさせて頂きました。当時、異動して勤めていた特別支援学校の生徒が毎年3人ずつくらい、7年で23人ほどが亡くなって行ったというのも死生観に影響したのかもしれません。可愛らしい筋ジストロフィーの子などが不意に亡くなって行きます。通勤途中の博多駅で女子高校生が、歩いて話して笑っているのが奇跡のように思えていました。接している生徒が亡くなるということも、初めて経験しました。
その教会には25年通いました。花や食事、書記など熱心に奉仕活動はしていました。僕の学びは遅く、新約聖書を理解するのに十年、旧約聖書を理解するのに十年程かかりました。単立の教会のせいもあってか、いろいろな問題が教会で起き、4年程前に離れることになりました。
そのあといくつかの教会を訪ねました。ここの教会はネットで探してきました。いざ、教会を離れてみると日曜日に礼拝に行くという事がどうしてもしたい自分がいて、聖書に触れると心が和みます。福音書で語られるイエス・キリストの存在がとても好きです。パウロの書簡もとても素晴らしいものです。
人生、60年以上も長く生きてきますと、友や先輩や親族の死にも立ち会い、またいろいろ嫌なことも経験せざるを得ないわけです。人間という器の限界を噛み締めています。
しかし、イエス・キリストやパウロの生き方を心に描いて善を求め、自分の罪を自覚し、残りの人生を過ごしたいと思っております。特別支援教育に目覚め、順調に時は過ぎて行きましたが、60歳、定年退職後の再任用は、人間関係もあり、2年目で辞めました。グループホームでパートしていましたが、コロナで潰れ、最近、パートをしていたデイサービスで、脳梗塞の高齢者の方や同年代で統合失調症や強迫神経症を患って生活されている方を介護させて頂きいろいろ考えさせられました。皆さん、生活が不自由で、孤独で、救いはどこにあるのかと思いました。唐原の小さな民家のデイサービスがシロアムの池のように思えました。
ここ数年で、長く通っていた教会からの離脱、生まれたばかりの赤ちゃんを残しての姪の自殺や母の死、最も親しくしていた信仰の先輩の白血病での突然の死、失業など辛い日々が本当に長く続いております。しかしかえって意外にも信仰は深くなり、主とともに居たいという思いが強くなっております。私が、地上で生活するのも長くて残り20年か30年、どう生きるかまだまだ確たるものは持てずにいますが、キリスト教信仰は持って行きて行きたいと考えています。人生にはいろいろ辛いこともあり私たちには、未来は分かりませんが、主イエスとともに生き、小さな真善美を求めたいと思っています。いくつかの教会を探し、この小さな教会の飾らない温かい雰囲気に誘われ、この教会に加えていただけたらと希望しております。私は、イエス・キリストが私たちの罪を背負い十字架に架けられ復活したことを信じております。コロナでいろいろ大変な折ではありますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。
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