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キリストの愛に結ばれて ヨハネの手紙一 4章7~12節

一人では淋しく、二人でいると心地好く、三人になると争いが生じる、という経験をしたことはないでしょうか。人は一人では生きられませんが、多くの人の中でも生きることも難しいものです。人の集るところには上下関係が生まれ、主張が異なれば仲間割れが起きます。確かに様々な価値観を持った人たちが共に生きることは至難の業です。

主イエスが「互いに愛し合いなさい」と言われるのは、自由気ままな付き合いが他者との関係を壊すことを見抜かれてのことでしょう。どんな交わりであっても、共に生きるには自分と異なる考えを持つ人をも排除せず肯定的に受け止めることが必要です。しかしこれが難しい。何故か。私たちはみな自己中心だからです。常に自分が正しく、相手が間違っている。だから説得してでも自分の考えを相手に押しつける。当然のことながら争い事となるのです。夫婦喧嘩、兄弟喧嘩は日常茶飯事です。

やむを得ないと言って冷えた関係のまま過し、別の相手を捜すという逃げ方もあるでしょう。しかし結果は同じこと。共に生きることに疲れを感じ、破局へと向かいます。家の中でも社会でも、国家間においても同じです。自己中心が争いを起こし、他者の存在を殺してしまうのです。

聖書は「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」(Ⅰヨハネ4:9)と記します。放置すれば破局に向かう交わりの中に、一人一人を結び合わせるために、御子イエス・キリストが遣わされたのです。自分の力では為し得ない、異なる他者を結び合わせるのは、イエス・キリストの愛です。主イエスは私たちの罪を引き受けて「罪を償ういけにえ」となって、究極の愛を示して下さったのです(同4:10)。すべての罪人への招きがここにあるのです。

私たちは、お互いが結ばれる前に、まず、このイエス・キリストにしっかりと結ばれ、それから、キリストに結ばれ合った者が手を繋ぐ、このことで始めて「互いに愛し合う」ことが可能とされるのです。家庭も社会も、国家も、このお方に結ばれることで、共に生きることが出来るのです。

       TK生

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