「家」とは何でしょうか マタイによる福音書12章46~50節
「家とは何か?」と改めて問われますと、考え込んでしまいます。建物に関心を寄せる人もあるでしょうし、そこに住む人々を想い描く方もあるでしょう。「家」とは、ウ冠が屋根つきの建物、豕(いのこ)が猪や豚を表すので、「豚を飼う建物」に起源があるそうですから、「生計を同じくする人たちを囲う所」とでも言えるようです。そこに住む人たちは、その囲いの中で財産や価値観を共有し、安心・安全が保障されます。
私たちの社会においても、自分の家と他人の家では、それぞれ住む人も異なり、財産や価値観も異なりますが、お互いにその境界線を越えることはありません。家と家では貧富の差がありますが、敢えて囲いを越えて他人の家に侵入するならば犯罪とみなされるでしょう。
最近は「取りもどそう日本」との掛け声とともに「国家主義」が台頭し、他国との関係においても「家」意識が強くなってきています。日本固有(?)の精神文化の押しつけ、とりわけ天皇を国家の長とする家父長制への回帰が教育現場にも求められることには危惧の念を抱きます。
「家」と「家」との付き合い方は互いに干渉し過ぎないことにあるかもしれません。お隣の囲いの中(財産、思想)が気に障り、垣根を乗り越えてその持ち物や文化に手を出せば争いとなります。けれども、お隣が困窮しているときに目を留めないならば、これこそ問題です。即ち、囲いの内も外も同じ神の御業の場であり、そこに住む人々をはじめとするあらゆる被造物は、神の手の中で共存している「お互いさま」と気づくこと、従って、家でも国家でも言えることでありますが、お隣さんが困っていたら、こちらから「これお使いになりませんか」と声をかけて分かち合う、開かれた関係づくりこそ、関係構築(付き合い=外交)の鍵となるのではないでしょうか。
主イエスは、自分たちの価値観にのみ捉われて、他者に開かれていない「血縁家族」を批判されました。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12:50)と。私たちの家と私たちの国、そして私たちの教会は大丈夫でしょうか。
TK生