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究めがたい神の知恵 創世記11章1~9節

19世紀ポーランドのユダヤ人でルドヴィコ・ザメンホフという舌を噛みそうになる名前の言語学者がおりました。彼のニックネームが「ドクトル・エスペラント」です。「希望の博士」とでも訳すのでありましょう。そういう時代が到来するかと「希望」を抱いた一人ですが、現実にはこのアジア諸国でさえ、今もなお英語が国際語として優位に立っているようです。

なぜ多くの言語があるのか?その原因譚(起源にまつわる話)が創世記11章のバベルの塔物語です。人類に知恵が宿り、自らが神の領域に達する塔を築こうとしたとき、神は彼らの言語を乱し(バハル)、そこに住む人々を散らされたというものです。世界に多くの言語があることの意味が問われているとも言えましょう。それは、人間の高慢、世界征服をもくろむ罪に対する神の審きであると、知ることができましょう。

わたしは、幼いころ、世界に多くの言語があることを「不便なこと」と理解していましたが、聖書は「不便」ではなく神と隣人への「不信」に起因していると指摘しているのです。もしこのことに気づき、神と隣人に対して罪を告白し和解を求めるなら、その時、言語の相違を越えてお互いの心を知り合える関係への回復が与えられると約束しているのです。

バベルの塔の事件を裏返す出来事が聖霊降臨です。聖霊の働きを受けて、一人ひとりが新しく生まれ変わり、民族や言語の相違にかかわらず意思疎通が可能となる新しい世界共同体、即ち教会が誕生したのです。名もない漁師の子であるペトロが福音を語り始めると、あらゆる隔ての中垣を超えて、それを聞いた者たちに悔い改めが起こり、他者との和解が起こされたのです。福音を伝えるとい言う人間の働き、この小さく見える働きに心砕かれる人々を神は選び、和解の使者としてお用いになるのです。「そこで、神は宣教という愚かな手段で、信じる者を救うこととされた」(Ⅰコリント1:21)のです。ここに神の知恵があります。言葉を乱し意思疎通を阻むのも神、聖霊を下し、悔い改める者に関係の回復を与えるのも神、然り、歴史を掌る神の究めがたい知恵なのです。

       TK生

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