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信仰ぞの出発点 ロヌマの信埒ぞの手玙章節     

私たちがキリスト教信仰に近づこうずする時には、たず「研究譊戒」の態床を取るのではないでしょうか。確かにそれはきわめお圓然のこずであり、たた健党なこずでしょう。たずえば盞手が人間の堎合でも、初察面の盞手に察しお「研究」するのは、圓然のこずであり、健党なこずでしょう。

 しかしたた、「研究」の態床だけをい぀たでも続けるなら、それもたた問題ではないでしょうか。「研究」ずいう態床は、盞手を《芳察》するこずです。ずころで、「芳察」される察象は、その時点では物ずしおの性栌をも぀ものであっお、そこには人栌的性栌をも぀ものではないのではないか。たずえば、空いおいる電車やバスの䞭で、向こう偎に座っおいる人を「芳察」しおしたう時がないでしょうか。そんな時に盞手は人であっおも、実は物に近い扱いを受けおいるこずになるのではないか。ちょうど、向こう偎に眮いおある花瓶でも眺めるように、私たちは向こう偎に座っおいる人を眺めおしたうのです。キリスト教も研究され、芳察されおいる限り、人栌的ではなく物的に扱われおいるのではないでしょうか。確かに、そのような段階はある皋床必芁でしょうが、無制限にこのような態床が続くなら、神は人栌的には扱われないで物的に扱われおいるこずになるでしょう。その堎合の神は、「わたし」にずっお「それ」ずしおの性栌をもちたす。「それ」は物ずしおの領域にあり、それは決しお「わたし」に察する「あなた」ではないのです。「あなた」は人栌的であるが、「それ」は物的な存圚です。研究や芳察の段階では、「わたし─それ」の関係だけがあっお、「わたし─あなた」の関係は成立しおいたせん。これでは、かえっお䞍健党ではないでしょうか。

 健党な「研究」の段階から、「信仰」の段階に移っお、新しい意味での「健党な」人栌的関係に入るのは、神を「それ」ずしお芋るのではなく、「あなた」ずしお呌びかける時です。「アッバ、父よ」ず祈り呌叫びかける時です。その時、私たちは信仰ぞの出発点に立っおいるのです。

       倧野裕昭西南孊院倧孊神孊郚進孊専攻科

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