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信仰への出発点 ローマの信徒への手紙8章12~17節     

私たちがキリスト教信仰に近づこうとする時には、まず「研究(警戒)」の態度を取るのではないでしょうか。確かにそれはきわめて当然のことであり、また健全なことでしょう。たとえば相手が人間の場合でも、初対面の相手に対して「研究」するのは、当然のことであり、健全なことでしょう。

 しかしまた、「研究」の態度だけをいつまでも続けるなら、それもまた問題ではないでしょうか。「研究」という態度は、相手を《観察》することです。ところで、「観察」される対象は、その時点では物としての性格をもつものであって、そこには人格的性格をもつものではないのではないか。たとえば、空いている電車やバスの中で、向こう側に座っている人を「観察」してしまう時がないでしょうか。そんな時に相手は人であっても、実は物に近い扱いを受けていることになるのではないか。ちょうど、向こう側に置いてある花瓶でも眺めるように、私たちは向こう側に座っている人を眺めてしまうのです。キリスト教も研究され、観察されている限り、人格的ではなく物的に扱われているのではないでしょうか。確かに、そのような段階はある程度必要でしょうが、無制限にこのような態度が続くなら、神は人格的には扱われないで物的に扱われていることになるでしょう。その場合の神は、「わたし」にとって「それ」としての性格をもちます。「それ」は物としての領域にあり、それは決して「わたし」に対する「あなた」ではないのです。「あなた」は人格的であるが、「それ」は物的な存在です。研究や観察の段階では、「わたし─それ」の関係だけがあって、「わたし─あなた」の関係は成立していません。これでは、かえって不健全ではないでしょうか。

 健全な「研究」の段階から、「信仰」の段階に移って、新しい意味での「健全な」人格的関係に入るのは、神を「それ」として見るのではなく、「あなた」として呼びかける時です。「アッバ、父よ」と祈り呼(叫)びかける時です。その時、私たちは信仰への出発点に立っているのです。

       大野裕昭(西南学院大学神学部進学専攻科)

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