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「救われた者の歩み」 エフェソの信徒への手紙 2章1~10節

  • kogabaptist
  • 2014年7月12日
  • 読了時間: 2分

今朝の聖書でパウロは、キリストの救いにあずかる「以前」と、救いにあずかっている「今」という対比の中で、キリスト者の人生について語っています。彼はまず「罪」について「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と言い、さらに「以前は肉の欲望の赴くままに生活し…生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」と述べています-1、3節より-。パウロの言葉は激しく、耳を覆いたくなります。けれども、彼はそれほどまでに罪の生活から「救われる」ことのよろこびを教会の人たちに伝えたかったのです。

さて、4節以降でパウロは救いが行いによらず、一方的な神の恵み(贈り物)によって備えられたものであることを繰り返し述べています(5、8および9節参照)。その上で、御子イエスを十字架につけてまで私たちを愛し抜かれた神への「応答」として「善い業を行って歩む」-10節より-ことへと導かれている、と力強く語っています。

7月の宣教テーマである「創造・環境」について考えてみましょう。私たちが長らく当たり前のように享受してきた「便利で文化的な生活」の陰で、世界的な飢餓のために多くの人が犠牲となり、もはや生き物が住めないほど環境が悪化した地域も次第に広がっていると聞きます。そんな中で「なんとかしたい」と思いながらも、一方で「私一人の力で何が出来るの?」とか「みんなやってることだから」と自分を正当化する思いが首をもたげます。

創世記は、神が天地を造られたとき、そのすべてをご覧になって「良し」とされ、さらにすべてのものの世話(管理)を人に託されたことが記されています-創世記1:25、26参照-。私たちの課題は、神が「託された」世界を「わがもの」のように欲の赴くままにその姿を変えてしまった点にあります。

キリストの救いにあずかり、「善き業」へと招かれた私たちに出来ることは、まず自らの欲求を満たす生き方から解き放たれ、立ち止まって神の思いに心を向けて歩み始めることです。「すべては神のもの」と告白できる教会だからこそ、希望をもって歩み続けることができるのです。

協力牧師 内田章二

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