「『和解の福音』の使者として」 コリントの信徒への手紙二 5:13~20
- kogabaptist
- 2014年8月9日
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今月は、15日の「敗戦の日」を頂点として平和への思いを新たにし、和解に生きることを願いつつ、御言葉に聴いています。今朝の聖書(Ⅱコリント5:13~20)でパウロは「キリストによって新しく創造された者は、和解の務めへと招かれている」と言っています。
パウロはかつて、イエスを信じる人たちを迫害し捕えることが自らに与えられた使命と信じていました。ところが、あるとき復活のイエスに出会い、迫害者から伝道者へと180度生き方を変えられました。まさにパウロの人生の中で「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」-17節より-のです。
こうしてパウロは福音宣教へと召されたのですが、彼が長い間「迫害者」であったことや、「十二使徒」と呼ばれる弟子たちのように直接イエスから教えを受けた経験もないことから、彼を「使徒」と呼ぶことに反対する人たちがいたようです。「えっ!クリスチャンもそんなこと言うの?」と思われるかもしれません。けれども、私たちが日常的に経験する些細な「言い争い」から国家間の「戦争」に至るまで、おおよそ争いごとの根底には、自分を誇り他者を見下ろし、またあるときは他者を意のままに支配したいという「肉の思い」があるのです。
パウロも彼に反対する人々に対抗して、自分の神秘的な体験を通してのイエスとの出会いを誇らしく語ることも出来ました。しかし彼はそれが愚かなことと知っていました。その上で彼は、十字架のイエスに注目するよう勧めています、「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」-Ⅱコリ5:15より-。
和解の出来事の中心に十字架のイエスが立ってくださり、それぞれの心に「神の平和」が訪れたときに、私たちは他者との比較の中で優越感と劣等感の間を揺れ動くことから解き放たれ、謙遜な思いをもって他者と向き合い、豊かな交わりを回復することができるのです。この朝、私たちも「和解の福音」を知らせる者として新たに歩み出そうではありませんか。
内田章二 協力牧師
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