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「怒ることがあっても」 エフェソの信徒への手紙4章17~32節

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」。この言葉の前25節には、次のように記されています。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです」。私たち人間が隣人に対して「偽り」を言うのは、お互いが一つ身体であるということがないからではないか。ちょっと残酷な言葉ですが、「他人の痛みは百年我慢できる」という言葉があります。たとえば自分の指を切ってしまったら、からだの一部ですから、そのケガの痛みは真実に受け取られ、偽りに受け取られるなどと言うことはないでしょう。この「真実」の問題が広がって、「怒り」の問題へと展開していきます。

 怒るということは、「真実」のもつ裏側なのです。真実のないところには、怒りというものも起こりえません。またお互いが不真実をもって、相手をだまそうとしていて、どちらかが先に相手をだました場合、だまされた者はおそらく怒ると言うことはしないと思います。「しまった!」と思うことはあるかもしれませんが「怒る」ということはないと思うのです。だますという不真実の行為の場合には、怒ると言うことはあり得ない。真実のあるところにだけ、怒りが起こる。そういう意味では、ここでは「怒り」というものが肯定的な意味で捉えられているのではないかと言うこともできるでしょう。なぜならば、「怒ることがあっても」と訳されている言葉は、「怒れ、しかも・・」と訳すことも出来るのです。つまり、怒ることがいちおう命令されているのではないかと受け取ることも出来るのです。

 しかし、聖書はすぐに言葉を次いで、「罪を犯してはなりません」といいます。怒ることは一応命令されているように受け取れるけれども、それは罪に陥る危険があるといっているのです。なるほど、それでは怒りはどのような場合に、罪に陥る危険があるのでしょうか。御言葉から共に学んでいきましょう。

       大野裕昭(西南学院大学神学部神学専攻科)

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