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「互いに足を洗いなさい」 ヨハネによる福音書13章3~17節

ヨハネ13章は過越祭が近づいた時の出来事を記しています。この過越祭は生前のイエスさまの最期と重なります。いよいよ主イエスは「神の小羊」(ヨハネ1:29,36)として全ての罪人の罪を引き受け十字架へと向かわれます。ヨハネは、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)と記します。「この上なく愛し抜かれた」とは「極みまで愛した」(岩波訳)とも表せる言葉です。

この至極の愛を、弟子たちに体験的に記憶させるために、イエスは弟子たちの足を洗い始められたのです。これがいわゆる「洗足」です。当時の習慣として、主人が外出先から帰ると、その家の下僕は水を用意して埃まみれの主人の足を洗いました。しかし、この時は、主であるイエスが弟子たちの足を洗ったのです。弟子たちの戸惑う姿が目に見えるようです。さすがにペトロが「あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と疑問を投げかけましたが、主イエスは「わたしのしていることは、今あなたがたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(同13:6,7)とお答えになりました。この時はまだ、真理が隠されていたと言えましょう。

私たちの人生も理解できない出来事に満ちています。こどもから「どうして」「なぜ」と問われ、返事に苦労した人も多いでしょう。「今、分からなくてもいいんだよ。後で分かるから。」と、こどもの成長を見守る人々のまなざしを思い浮かべます。恐らく、福音書記者のヨハネも、後になってから、即ち、福音宣教の困難さを経験する中で、弟子たちの足を洗い十字架に向かわれた主イエスのまなざしの真意を理解したのではないでしょうか。

「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(同13:14)と主イエスは命じています。主に従う人々は「今わからなくても」教えられた通りに実践するのです。そうすることで「後でわかる」世界に導き入れられるのです。主イエスの至極の愛は、お互いが汚れた足を洗い続けることの中で会得していくものです。只々「率先垂範」の主に感謝!

       TK生

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