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「主告白こそ先達の喜び」 フィリピの信徒への手紙 2章1~11節

フィリピの信徒への手紙は、伝道のために迫害を受け投獄されているパウロからの激励の手紙です。彼は獄中の自分のことよりも教会のことが心配です。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」(フィリピ2:1~2)と記します。彼が祈りの中から創設したフィリピ教会が「肉の思い」に翻弄され、「愛」と「一致」を失っているとき、パウロは我がこととして心を痛めるのです。

パウロは、この教会に対して、もう一度信仰生活の基本に立ち返るように勧めます。それは過去の人物を云々して、その優劣を論じ合うことから、イエスさまに集中する信仰への転換の勧めです。教会が過去を振り返るとき、「あの立派なAさんがいたから」と、しばしば人間を称える誘惑に陥ります。しかしそれは「あのBさんはいない方が良かった」との酷評と表裏一体です。パウロは人々ではなく、神を、即ちイエス・キリストを注視するようにと勧めるのです。人間の姿で現れ、十字架にまで従順に歩まれたイエスさま。そのことの故に、すべての被造物が「イエス・キリストは主である」(同2:11)と告白するに至った、あのお方を注視させたいのです。

今日の召天者記念礼拝、私たちが今あるのは、この教会で信仰生活を送られた「あの人」「この人」によっています。それは紛れもなない事実であり、感謝と喜びは尽きません。しかし、その先達がわたしたちに何を望んでおられるのか、と考えると、それは「自分たちの遺徳をしのべ」ではないでありましょう。むしろ、一緒に見上げるべきお方としての主イエス・キリストを指し示しているのではないでしょうか。即ち、私たちの罪を引き受けて、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(同2:8)であったお方を指し示しているのではないでしょうか。主の御許にある先達の喜びを満たすこと、それは、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と告白し神を称えることにあるのですから。

       TK生

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