「福音を伝える使命と責任」 エゼキエル書 33章1~6、11節
紀元前6世紀、イスラエルの民はバビロニア帝国によって、捕囚の身となっていました。国を追われ、拠りどころとする神信仰を維持することさえ危うい状況にあった人々に、神はイスラエル再興の道程を伝えようとしました。しかし、文化的にははるかに豊かな都市バビロンに生活の場を移した人々に「捕囚からの解放」を伝えても、その言葉は空しく響くばかりであったのです。そればかりか、預言者自身も、語るべき言葉を授けられていても、人々に伝える気力を失っていたのでした。
そこで、神はエゼキエルを立て、預言者として求められる「見張り人」の使命と責任に言及します。即ち、もし神から離れている人々に神の言葉を伝えなくても、彼らは自分自身の罪悪のゆえに滅びるが、しかし、その血の責任は「見張り人」である預言者自身に求める、と言うものでした。
これは今日のキリスト者への問いかけでもあります。真の神の存在に目も向けず、ひたすら富と力を追及して歩む人々を、秘かにうらやみ、この人々が死と滅びの中に歩んでいると聞かされていながらも、波風を立てないようにとこれを伝えず、見て見ぬふりをして、自己保身の道を歩んではいないか、と言いう問いかけです。その人の滅びはその人自身の選び取りの結果ではありますが、血の責任は誰にあるのでしょうか。
神は預言者エゼキエルに語りかけます。「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル33:11)と。
新約の時代に生きる私たちは、主イエスが神に立ち帰る道を開いて下さったことを知っています。私たちに代わって神の審判を引き受けて下さった十字架のイエスを知っています。この福音を伝えないままでいるならば、キリストの日に「私は聞いたことがない」と主張する人の前で、申し開きをしなければならないでしょう。この責任は大きいのです。
TK生