「イエスのまなざしの中で」 マタイによる福音書 9:35~38
伝道とはイエスのまなざしを受けた人が、同じまなざしに立つことで始まります。その動機は愛であり憐みです。イエスの愛と憐みに見出されたことの喜びが周囲の人々へと向かう時、そこに伝道が始まります。確かに、伝道はキリスト者としての当然の義務であり、責任です。しかしそれ以上に、心の底から湧き出る憐みの出来事です。
イエスのまなざし、即ちその憐みは、神の愛を知らない人々に接するときに起こされる「深い憐み」(スプランクニゾマイ⇒その意味は「はらわたが揺り動かされる」)から来るものです。恐らく、そこにいる人々にとって、その有様は必ずしも同情を呼び起こすものでは無かったでありましょう。マタイ9:9~13にはマタイ自身の召命の物語もあります。彼は人々から嫌われる徴税人でしたが、ローマの後ろ盾を得て裕福でした。憐みの対象ではない、そう思える人でした。しかし、その彼がイエスの憐みを受けて弟子とされるのです。この体験を通して、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた」との自己理解を得たのです。
神から離れて生きている人々、見た目は幸福そうに見えたとしても、彼らは「弱り果て、打ちひしがれている」(「皮をはがされて打ち捨てられている」の意)のです。イエスの愛のまなざしの中では、そう映るのです。
伝道は、先ず自分自身がどんな状況の中から救い出されたかに気づかされている人でなければできません。そうです、この原体験を持っている人々の中から、神は働き人を起こすのです。もし、私たちが自らを「飼い主のいない羊」であったと理解しているならば、まさに、その人こそ神の「働き手」の候補者です。神はその中から、時に応じて、御心にかなった人に呼びかけ、召し出し、働き人として遣わしてくださるのです。
主イエスは「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と勧めます。マタイはこの召しを受けて、主イエスとともに働き手として立てられました。私たちも、主からの召しがあるときに応えられるよう、備えておく必要があるのです。
TK生