「生きる意味」を与えられる神 マルコによる福音書 2章13~17節
今日の聖書で、まず私たちはイエスが群衆に囲まれておられる姿を見るのです。「群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた」-2:13より-と、マルコは何か当然のことのように伝えていますが、人々はあちらからこちらから「ぞくぞくと」イエスのうわさを聞きつけてやってきたのです。人々はファリサイ派の教師たちから神のことを聞いて知っていましたし、神の愛、力、恵みなどについても教えられていました。しかし、人々が今、目の前のイエスから聞く「神の国」は少し様子が違っていたのです。それは、イエスが語られる一つ一つの言葉の中に、「神によって造られ、神から愛されている一人のいのち、一人の存在の大切さ」が感じられたからにほかなりません。
重い障害を持って生まれた私は、物心ついた頃から「生きる意味」を問い続けていました。「何も出来ぬまま成長し、年老いて死んでいくだけの人生って何なのだろう…」。やり場のない怒りと寂しさで悶々とした日々を過ごす中、私はラジオ放送を通してキリストに出会ったのです。やがて教会に集うようになり、むさぼるように読んだ聖書に「わたしの目にあなたは価高く、貴く…」-イザヤ43:4より-との御言葉を見つけたとき、「生きる意味」は私たちを造られた神が与えられると知りました。そして、祈りの中で残る生涯を神に献げる決心をしました。イエスに出会い、救いにあずかった今も「障害」と向き合う現実には変わりはありません。しかし、「命の重さ」が問われる時代の只中で、一人一人の存在が神の前に確かに喜ばれ受け入れられていることを、身をもって証し続けていけたらと願う毎日です。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」-2:17より-。今朝の聖書を締めくくるイエスの言葉は、自らが「神との関係なしには生きられない存在」ということに気づいて招きに応えて生きることを私たちに促しています。この朝、あなたもイエスを受け入れて新しい人生を歩み始める決心をなさいませんか。
内田章二 協力牧師