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「祈りを動機づけるもの」 マタイによる福音書 6:5~15

「求めなさい。そうすれば与えられる。」(マタイ7:1)とは主イエスからの約束のお言葉です。しかし、祈り求めてもなかなか思うように与えられません。祈りの力が足りないからでしょうか。確かにこの言葉は「求め続けなさい」の意ですから、求める頻度に問題があるのかもしれません。この世の人もお寺にお百度参りをしたり、お題目を何時間も唱え、苦行を重ねるなど、神仏に関心を惹かせようとするものもありますが、聖書はその祈りの動機づけがどこにあるのかと問うているようです。ヤコブの手紙4:3には「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」と記されています。

主イエスは常に率直に心の内を祈られましたが、御自分の要求を押しとおすような祈りはされませんでした。それは十字架を前にした苦しみの極みの中での祈りにおいても現れています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」とです(マタイ26:39)。私たちが毎日のように祈る「主の祈り」においても、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(同6:10)と教えて頂いています。神の御心を最優先するのです。

祈りは神との出会いの通路です。それは私の願い事を聞かせる通路というよりも、神の御心を知らせていただく通路です。「天の父よ」と祈り始めることでこの道は開かれます。そして、「わたしたちに」「わたしたちの」「わたしたちを」と祈るときに、この祈りは世界の人々に開かれた出会いの通路となるのです。自分の求めを神に要求するのではなく、世界の人々を「わたしたち」として理解する愛の交わりの中で神に近づくのです。

祈りは言葉となって出て来なくとも、常に心の内に語りかけ、その人の生き方を支配するものです。それだけに、心の内にある動機が何であるのかを繰り返し吟味する必要があります。祈らないことは霊的死を意味しますが、何でも祈ればよいというものでもないことを心得ておくことが大切でしょう。あなたはどんな動機づけで祈っているでしょうか。

    TK生

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