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弱さの中にある力 ルカによる福音書 1:46~55

マリアの賛歌(ルカ1:46~55)の第一声は「あがめます」(メガリュオー)で、その意味は「大きくする」です。神を大きくすること、即ち神の前に自分が小さくなること、それが「あがめる」の意味です。「自分を徹底的に小さくすること」、ここにこそクリスマスを迎える者の姿があります。しかし、それは単に自己卑下を意味しません。むしろ、厳しい現実から逃避せず、忍耐強く状況を見極め、勇気を持って困難に立ち向かう姿の中にこそ見ることが出来ます。なぜなら、一番小さくされているお方、飼い葉桶の中に身をゆだねている神の子イエスこそが、実に、一番小さく弱くされたお方であり、ここにこそ希望があるからです。

使徒パウロは復活の主から聞いた言葉として「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と記しました(Ⅱコリント12:9)。「弱さの中で発揮する」とは「弱さにおいて完結する」の意味です。しかし、この世は「弱さ」の対極にある「強さ」に、即ち、経済力や軍事力こそが国家を救うと声高に叫ぶ者に期待を寄せます。でも、本当の力は弱さのただ中に存在するのです。確かに、マリアは自らの小ささにおいて神をあがめ、何よりも、救い主ご自身が飼い葉桶から十字架に至るまで、その全生涯を弱さの中に身を置かれ続けたのです。

マリアは、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(同1:51~53)と、被抑圧者や社会的弱者の立場を逆転させる救い主の力強さを賛美します。ここで記された6ヶ所の動詞は全て過去形で、もう既にそうなった!と言う意味です。恐らく、見える形では何一つ実現していないにもかかわらずです。信仰とはこの世の現実を見据えつつもそれに支配されず、神の手にある真実を過去形として先取りすることです。救い主の力は今すでに弱さの中で溢れ出ているのです。私たちもマリアと共に弱さの中に身を置いて、主をあがめる喜びに与りましょう。

    TK生

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