「主の恵み」を数える (詩編107編1~9節)
“望みも消えゆくまでに”(新生103)は世界中で100年以上の長きにわたって慕われてきた讃美歌です。さまざまの困難や悲しみに遭遇した時、多くの人がこの賛美を口ずさみました。なぜ多くの人々がこの歌に心ひかれたのでしょうか。それは、繰り返しのところに歌われる「数えよ 主の恵み、数えよ 主の恵み、数えよ 一つずつ、数えてみよ 主の恵み」のことばに希望を見出したからではないでしょうか。
信仰生活は自分自身の一生懸命さで達成できるものではありません。自分の力の限界に突き当たったとき、それは、もはや神を見上げるより他にないのです。否、神を見上げることが出来るのです。ここに神の側から訪れる「主の恵み」、約束の世界が開かれます。
私たちは「恵み」という言葉をどのような意味で受けとめているでしょうか。自分の願い通りのことを神が起こして下さることでしょうか。確かに思い通りになる時に、神の恵みを身近に感じることが出来るでしょう。しかし、現実は厳しく、自分の願いとは裏腹に、思いもよらないところへと導かれることが多いのです。「私の一年、何の恵みもなかった」とつぶやきたくなる現実であったかもしれません。しかし、「自分の思い通りにしていただく」という「恵み理解」には根本的な思い違いがあるようです。
「主の恵み」とは「私の希望がかなえられたこと」を指すのではありません。そうではなく、私の現実に関わりなく、「神の側の約束が忠実に果たされていたこと」にあるのです。この一年間、私たちが歩んできた道には、神と隣人に対して犯してきた傷痕が多く残っているはずなのです。ところが、その一つ一つを主ご自身が引き受け、繕い続けて下さっていた。神の一方的な贖いに基づいて、関係の修復がなされていた。この神の真実こそが「主の恵み」なのです。それ故に、「『恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに』と、主に贖われた人々は唱えよ。」(詩編107:1,2)と呼びかけているのです。この一年、神の贖いの出来事、「主の恵み」の数々を想起して、主に感謝しようではありませんか。
TK生