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恵みの主をたたえる      (エフェソの信徒への手紙 1章3~7節)

主の年2015年が始まりました。この年もわたしたちは毎週、主イエス・キリストを礼拝します。しかも独りでではなく、共に礼拝を捧げます。何故なら、礼拝の場面でこそ「自分とは何者か」が問われ、「共に生きる」ことの意味が問われるからです。聖書はカインとアベルの物語(創世記4章)を通して、一緒に礼拝することの難しさを伝えています。また、神は独りで神の前に出る時にも、他者とのつながりを問いかけます。イエスは言われました。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(マタイ5:23~24)と。神の前に心穏やかに礼拝を捧げようとするなら、まず、他者との関係を正すことです。

けれども、この「仲直り」を自分の努力で行うことは不可能です。しかし感謝すべきかな!神はイエス・キリストを通してそれを可能として下さいました。神は御子イエスをこの世に遣わし、私の罪を引き受け、犠牲を払ってそれを処分されたのです。これが「贖罪」です。この神の側の行為を「私のこと」として受け取ることで、共なる神礼拝が回復されるのです。

私たちはこの神の「贖罪」行為に対して何のお返しもできません。何故なら100%神の行為だからです。だから「恵み」と言うのです。エフェソの信徒への手紙は「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、・・・キリストにおいてお選びになりました。・・・その愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1:4~7)と記し、この恵みに応える行為は、唯一、「恵みの主をたたえる」だけだと強調するのです。

主の血によって贖われていることを肝に銘じ、この一年間も、この恵みの主イエス・キリストをほめたたえる礼拝を、私たちの生活の土台に据えて、共に喜びの道を歩もうではありませんか。

    TK生

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