「実りを分かち合う」 ルカによる福音書 12章13~21節
今朝私たちはルカによる福音書から一つのたとえ話を聞きます。このたとえは私たちに「クリスチャンとはいったい何者なのか」と問いかけています。
イエスは、神の前に富む生き方が求められていることを教えるために、「愚かな金持ち」のたとえを語られました。この物語においてキーワードとなっているのは「私」という言葉です。新共同訳聖書ではこの言葉は省略されていますが、17節でこの人は「どうしよう。(私の)作物をしまっておく場所がない」とつぶやき、18-19節では「こうしよう。(私の)倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに(私の)穀物や財産をみなしまい・・・」と言っています。確かに、豊かな実りをもたらした畑はこの人の所有であり、取れた作物も彼のものです。けれども、彼はその豊かな実りがどこから来たのか、誰が何のために与えられたものなのか、という最も大切な部分が見えていないのです。そのように「私」にこだわり続け、「私」が主役になるとき、すべてをお造りになり、私たちに与えて下さった神の姿は見えなくなるのです。それと同時に、神がこれらの富を用いて共に生きて行くようにと備えて下さった隣人の姿も見えなくなってしまうのです。
私たち心の中には、「共に生きたい」と願う私と、それとはまったく裏腹な「私」が同居しています。そして多くの場合、自分自身の中にある「弱さ」を見ないようにしながら、安易な道を選んで歩むのです。共に生きようとするとき、痛みを伴うことを私たちはどこかで知っているのです。だから、そういう道をあえて選びとることはしたくないのです。けれども、私たちは自らに弱さと向き合い、痛みをも共に担う決断をしたときに、神の前に富む人生を歩むことができるのです。
イエスも十字架の上で極限の痛みを経験されましたが、それはまさに私たちの罪のためでした。このイエスを見上げ、私たちも突き動かされて信仰の歩みを続けてまいりましょう。
内田章二 協力牧師